北畠顕実は、好きという感じ方が通常人とは異なっていて、好きを感ずるのではなく、自分独自の基準に基づいて論理的に判断する。逆に嫌いなことは本能的で、例えば他人との接触、会話、目を見られること等々。

 篠島を離れ、吉野入りした直後、北畠顕信や千賀地保親から好きなところへ行き好きなところに住まうことを許された。そのための必要な資金なり人足なり、あるいは書状など可能な限りのことはすると顕信らから提案されたのだが。ただし、条件は北朝の味方をしないこと及び、できれば南朝のために情報を集めて欲しいというものであった。
 好きなところに住んでよいと言われても、すぐに答えが出る人はそう多くはないであろう。吉野において顕実もご他聞に漏れず顕信らの提案にすぐには返答できず、珍しく他人の噂話を頻繁に聞き入っていたのである。そんな中、顕実は人々の間でよく話題になる高僧の名が一つあることに気がついた。その僧、よほど人気があるらしい。うわさでは帝(後醍醐天皇)も足利氏も、北條入道高時ですらその僧を尊崇していたというのだ。その僧の名は夢想疎石と言う。顕実は何故その僧に人気があるのかを知りたいと切に思った。そして彼が聞いた様々な噂をつなぎ合わせると、その僧は庭を造るのが上手で、寺に美しい庭園を造るために新たに開山を依頼されることが多いらしいのだ。つまり人気の鍵は上手な庭づくりであるとの結論になるがそれは本当であろうか。はたまた所詮、噂は真実ではないのであろうか。これ以上は噂からでは知ることは出来ないであろうと思った。
 また、別の噂で、京の西のはずれの松尾にある行基開山の由緒ある寺の話があった。その寺の名は西方寺と言う。今までは荒れ果てていたらしい。この寺の近所にある松尾大社の宮司で藤原親秀(ちかひで)という人の招請により、例の人気の夢想疎石が禅寺として現在、再興中であり荒れ寺に美しい庭を造成しようというのである。寺名の「西方寺」というのが特に顕実の気を惹いた。何故ならば西方とは顕実が特異的に感知することのできる方向であるからだ。この寺名の由来は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を祀る寺の意からである。だが実はこの少し後に、夢想疎石が中興開山のおり、寺名を西芳寺に変更してしまったのだが。と言うのも疎石の禅式庭園は、従来の西方極楽浄土を表現した極楽浄土式庭園や神仙蓬莱(ほうらい)式庭園のような空想世界の現世表現ではなく、彼自身の思想そのものの表現であることに関係する。しかるに西方極楽浄土を想起させる西方寺を改め、それを連想させない西芳寺としたのであろう。無論この寺、現在の西芳寺、いわゆる苔寺のことである。ちなみに苔蒸したのは江戸時代後期のことであり、当時の作庭プランでは苔に覆われることなど想像だにしていなかったはずである。
 ところで顕実はかつて伊賀神部党として奈良の元興寺に身を潜め東大寺の様子を伺うことがあったが、この元興寺というのは顕実お気に入りの場所であった。理由は彼の判断基準である西に向けることに合致していたことにある。元興寺では東門が正門(普通の寺は南門が正門=南大門)。門をくぐる者が西方極楽浄土へ赴くことを意図している。さらに地理的にもこの元興寺は故郷である伊賀神戸の真西に当たっていたためである。
 今回、噂で聞いた西方寺も元興寺に一脈通ずるものがあると顕実は思った。そして聞くところによれば京の西の外れの松尾と言う地は吉野の真北にあるらしい。常に西方位を感じ取ることのできる顕実は東西南北に対して直線的に移動することを好む。そのため移動先が真北に位置していると言うのは何よりである。さらに、造園という行為にことさら惹かれるものがあった。また夢想疎石が噂の通りであるか否かに関して知る必要性があると顕実は感じたのである。そこで、義良親王が皇太子になったのを期に、顕実は北畠顕信や千賀地保親に夢想疎石の元、西方寺に行きたい旨を告げた。そしてその翌朝には吉野を離れることにした。

 目西が、西方寺に着く前に忍びでも介し夢想疎石に諸事情を記した書状でも渡したのであろうか。寺側での受け入れの手はずは万全に整っていた。また、残念なことに庭園の造作も大半が既に完成していた。造作の盛時に比べると人役も半数以下で、今の作庭は細部の修正ぐらいなものであった。目西が行う作業といえばもっぱら盛夏のためものすごい勢いで生えてくる雑草を抜く所謂作務(さむ)つまり日常雑務ぐらいであった。夢想は作務も大事であると言うのだが。
 夏の終わり頃には庭池もほぼ完成し、水を入れ始めた。池が水を湛えると庭園は突如変身する。橋が橋としての意味を持ち、島が島となる。初め濁っていた水も徐々にすんできて、周囲の景色を映しだす。また、どこからともなく水生昆虫はもとより鯉だの鮒だのがやってきて、生命の魔法をかけたかのように極自然なものとなる。と同時に庭の木々でもツクツクボウシが、季節柄であろう、鳴き始めた。
 そんな頃、目西の耳にも後醍醐帝崩御の知らせが届いた。南朝の新帝には皇太子義良が即位することも併せて知った。何かが大きく動く。目西にはそんな気がした。

 延元四年(1339)9月8日、後醍醐帝崩御を受けた北朝側は南朝の廃朝を宣言した。強引なやり方である。しかし、このあまりにも一方的な宣言は現実を何も変える力を持たなかったし、世間へのインパクトもなかった。
 一方、夢想疎石は足利尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を強く進めた。尊氏卿にとって、あるいは北朝にとって宿敵そのものであった先帝の菩提寺建立を進めたのである。にもかかわらず、この寺院建立は秋も深まる10月5日に光厳上皇が足利尊氏、直義の奏請に許可を与えたという形で実現することとなった。世間へのインパクトも大きくすぐに巷の噂とあいなった。
 この寺院建立用地に選ばれた場所は京の北西、嵯峨野にある亀山殿である。嵯峨野は平安時代初期から貴人たちの別荘が多く存在していた。ご他聞に漏れず亀山殿も、約80年前、後嵯峨天皇とその子である亀山天皇が造営した離宮で、歴代大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の皇族が利用してきた別荘である。元来この地には平安時代初期に嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)が開いた檀林寺があったのだが、後嵯峨天皇時代には荒廃していたらしい。そこに起こした別荘が亀山殿
という訳である。

 延元四年は北朝では暦応二年と称する。そこで寺号は、北朝の年号をとって暦応資聖禅寺と決まった。がしかし考えても見ると南朝の帝の菩提を弔うと言うのに、寺号が北朝の年号であっては、弔うものも弔う得まい。と、さすがの足利兄弟も正直、北朝の年号を寺号にするのにためらいを覚えたらしい。そこで、尊氏殿の弟左兵衛督(さひょうえのかみ)直義殿が、建設予定地の南の大堰川(現在の保津川)に金龍の舞う夢を見たとかなんとか。そこで寺号は天龍資聖禅寺と改められたと言う。現在の嵯峨野の天龍寺のことである。また、この後、建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは良く知られている。

 期待に反した西芳寺での生活に嫌気が差している目西にも天龍資聖禅寺建立の話が入った。またその天龍寺にはかつてないほどの作庭造作があるということも。夢想疎石の集大成とも言うべき。天龍寺は西芳寺の北北西に位置しており半里程しか離れておらず直線距離的にはさほど遠いわけではない。しかし、西芳寺は大堰川の西岸にあり天龍寺はその対岸にある。川を挟んでいるためにそう簡単に往来できるものはない。それでも天龍寺の造作を知った目西は、冬のある日、誰にも告げることなく西芳寺を離れ、勝手に天龍寺の造作に加わり始めた。目西のある意味お供で従っていた忍びもあわてて彼に従い天龍寺に移るとともに、伊賀と北畠顕信にこれら一連のことを伝えた。
 ある日、造作中の天龍寺で目西は夢想疎石に出会った。目西は相手が高僧であろうが如何なる人物であろうがお構いなく、自分が知りたいと思ったことは美辞麗句なくぶっきらぼうに尋ねる。西芳寺のとき以来、庭にある石組み、築山、滝、池、橋、島そのものに隠された意味があると目西は考えていた。そこでそれぞれの象物が持つ意味を尋ねようと思った。がしかし実際には、目西は夢想に対して一言だけ、何故庭を造るのかだけを尋ねた。
 夢想疎石は目西が西芳寺から抜け出してここにいることに気がついたが、特に驚きもせず怒りもせず、目西ににこやかに語った。そういう問いかけをする弟子に疎石はかつてあったことがなかった。夢想は目西に俗人離れしているものを以前から感じていた。
「西芳寺の回廊の壁に偈頌(げじゅ)を書いておいたのだが」
それを聞いた目西は直ちに西芳寺の回廊の偈頌を思い出し、その文言を正確に口にした。目西の記憶は一般人とは大きく異なり写真的記憶なのである。
仁人は自ら是山の静かなることを愛し
 智者は天然の水の清らかなるを楽しむ
 怪しむ莫(なかれ)愚惷(ぐしょう)が山水を弄ぶことを
 只図る 是によって精明を礪(と)がんことを

(仁人は山の静かなることを愛し、智者は水の清らかなることを楽しむ。私が庭を作ることをあやしまないように。作庭によって、自分の心の清らかさをみがこうとしている)」
夢想は一瞬、目西の異常なまでの記憶力に驚かされたが、再びにこやかに
「さよう、精明を礪がんがため」
とだけ語り、静々と目西の前を去っていった。
 また目西は、日々夢想疎石の弟子と称される作庭師達から、滝や池の意味、石組の意味等を学んだが、目西にとって思想はある意味でどうでも良い事柄であった。
 目西にはむしろ、庭造りの土木工学の方が重要であった。やはり忍びの性分からであろうか。それでも、禅を組まされ幾度も思想を聞かされる内に目西はそこそこの禅僧となっていった。

 結局、目西はこの地に約四年間住むことになった。この地が彼の好きの基準に合致したかどうかは不明である。


        





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