墨俣の宿は目の前の大河が交通のボトルネックとなるため人が滞留してしまう。その滞留が故に宿駅としては栄えるわけである。そして栄えれば当然、近隣から様々な人や情報が集中するようになる。このような拠点の宿駅には自然と傀儡女(くぐつめ)と呼ばれる遊女達も集まってくる。平時はともかくこの動乱の世では彼女達は春を売るだけではなく時として情報収集や伝達係を担っていることもあった。そのため女忍(おんなのしのび)が傀儡女に扮していることもしばしばであった。
夕食を済ませた鷹鷲は宿から冷たい夜風に当たりたくなり外に出て宿駅内をぶらついてみた。鼓星(オリオン座)が綺麗な夜であった。自分の吐く息が月光で青白く見えた。
「東に進む」と繰り返す目西の言葉が耳に付いて頭の中で何度も回ってしまっている。北畠顕信の命令とは言え、性質異質の人物と旅するのも楽ではない。正直辛い。すでに齢は忍びとしての盛りを疾うに越している。任務を遂行していくこと自体はたいしたことではないのだが何かが空しい。子供も連れもいないベテランの忍者。生まれたときからの天涯孤独。鷹鷲はもともと伊賀の藤林の棟梁に拾われた素性の知れない孤児であった。ふと、こんな星空の綺麗な夜に深い寂しさに襲われるのである。鷹鷲には鼓星の三ツ星の下に輝く青星(シリウス)が明滅して見えた。涙?
と、どこから現れたのか傀儡女が声を掛けてきた。雲水のような聖職者に真正面から声をかける傀儡女は稀である。寂しさを紛らわすには正に打ってつけではないか。齢は二十歳ぐらいであろう。眼光が鋭い。興味を持った鷹鷲が宿屋にその女を連れ込んだ。
実は、女は鷹鷲のかもし出す雰囲気からか伊賀者であることを見抜いておりそれで声を掛けたのである。逆に鷹鷲も直ぐに言葉から女が伊賀者、それも百地党の忍びであることに気がついた。多分この女、あの一行の素性を知っているに違いない。鷹鷲は直感した。そこで鷹鷲は女に昼頃見た手車の一行の主に関して正面から問うてみた。質問に女はやや驚いたようであった。鷹鷲のことをてっきり自分の一派の忍者であると思っていたようである。そうでもなければ声などかけない筈である。
案の定、鷹鷲の思った通り傀儡女扮するこの忍びは手車の主人が懽子内親王(宣政門院懽子)であると語った。やはり。ただ状況は鷹鷲が考えていたよりもやや複雑であった。
宣政門院懽子は出家して門跡である仁和寺に居たが、足利左兵衛督直義殿の許可の元に仁和寺から出たという。出奔、すは還俗かと思いきやさにはあらず。左兵衛督が許可した、と言うよりむしろ指示した筈の行く先をこの傀儡女は知らなかった。この傀儡女どころか北朝上層部の大半が知らないと言う。忍びとして行き先を突き止めるのが正に使命だと言う。左兵衛督直義が指示しているのに何故北朝の上層部が行き先を知らないのだ。鷹鷲には解せなかった。
実はこの百地党の女忍、仕えているのは無論、北朝ではあるのだが。件の足利左兵衛督ではなく足利征偉大将軍尊氏卿の執事高師直に仕えているとのこと。今、北朝では左兵衛督直義派と執事高師直派に分かれて互いに牽制しあっていると言う。そして今回の件、左兵衛督直義が宣政門院懽子に与えた下向許可に対して、高師直は「勝手な行動を」と左兵衛督を非難し激怒したらしい。尚且つ、左兵衛督からの連絡は全くなく執事どころか将軍ですら宣政門院懽子の行き先を知らされていなかったと言うのだ。それで執事高師直の命令一下、約三十人近い忍が街道筋に散らばり、下向先、目的、直義の謀反の兆候の有無を内偵することになったと言うのだ。北朝内部で謀反を監視するとは。確かに、もし仮に足利左兵衛督直義が南朝側と手を組めば、南北朝の統一を果たした上で自らが将軍位になることもありえると言う訳だ。常日頃から左兵衛督は貴族と通じていることが多く、さらに言えば今回の宣政門院懽子、北朝の中宮ではあったが、父が後醍醐帝で母が西園寺禧子、血は南朝そのもの。南朝の現帝も北朝と敵対する多くの宮も皆異母兄弟。左兵衛督が正に宣政門院懽子を介し南朝の宮との工作に入ったのではと疑うことも通りである。
ところでこの話、将軍位を帝位とし、尊氏を後村上天皇、足利直義を信濃宮、そして高師直を北畠顕信に入れ替えれば全く南朝側の構図そのものである。そして、味方を内偵する役と言えば南も北も結局は忍であり、今回はどちらも伊賀者。鷹鷲も女忍も話していく内にお互い何度も溜息をついた。自分達には本来無関係であるべき権力闘争。その末端で実に非生産的な活動を強いられているものであると。自分と価値観を同じくする異性が存在すると鷹鷲はこの時初めて知った。それはかつてない感情を鷹鷲に誘起するものであった。もし許されるのであれば。
足利直義と高師直。直義は政務担当でかねてから貴族と近しい関係。性格は真面目で律儀。一方、師直は軍務担当で皇室の権威ですらものともしないバサラの代表的武人。昔も今も政務と軍務は衝突するものである。古くは蘇我氏(大臣=政務)と物部氏(大連=軍務)のように。とは言え二人の対立にはきっかけがあった。 ちょうど三年前の興国二年(1341、(北)暦応四年)三月頃である。足利直義派閥の塩冶高貞(えんやたかさだ)の美貌の妻に高師直が横恋慕したことが事の発端。高師直は兼好法師や薬師寺公義に恋文を代筆させ送りつけたが相手にもされなかった。逆上した師直は悔しさで塩冶高貞の有りもしない謀反をでっち上げ讒言奏上してしまった。已む無く直義は自分の一派である塩冶高貞を成敗せざるを得なくなってしまったのである。直義は謀反が恋の逆恨みによる師直のでっち上げであることを後で知った。そしこのことで直義と師直の確執は決定的なものとなってしまったらしい。
宣政門院懽子の行き先は果たして何処なのか。傀儡女に扮している女忍によると仲間の連絡から今夕当たりこの宿駅につく筈であると言うのだが。その気配は全くない。さらに、斥候なりの随身が墨俣で渡しを雇ったと言う情報も全くない。墨俣の手前の宿にもいないらしい。この寒空のもとで野宿でもしているのか。いやそれは考え辛い。目西、鷹鷲を抜き墨俣を越え東山道にでも入ったのか。この季節に神坂峠を越えることはないであろうとの判断から高師直配下の諜報部隊の大半は東海道に展開している。この後東山道に入った場合の追跡は難しいという。確かに宣政門院懽子が仮に手輿に乗り物を変えたとしても険しい峠道を越えるのは難しい。徒歩か乗馬しているほうがむしろ峠越えは本人にも楽かもしれない。が、この女院が徒歩や乗馬で旅をした経験があるとは思い難い。鷹鷲の記憶では、この女院、若い頃に伊勢斎王に卜定され、斎宮になったことがある。この女院にとって旅とはきっとこの斎宮になった時と、斎宮を退下し京に戻ったときぐらいないものではなかろうか。鷹鷲の記憶では退下したのは元弘の乱のおりのこと。後醍醐帝の倒幕計画が漏れ六波羅に鎌倉幕府軍が入り、帝は京を離れ笠置山に入山。しかし、結局、帝は敗れ隠岐に配流。このときの帝の廃立により宣政門院懽子(当時内親王)も自動的に斎宮を退下した筈であった。実に短い斎宮であったはずである。この女院の旅経験はこのぐらいのもの。やはり、神坂峠を越えるのは困難と考えざるを得ない。それでは行き先は。
鷹鷲は伊達に年を重ねてきたわけではないと自分自身感じた。正に敏腕の忍者の域と言える。豊富な機密に関わる歴史的知識は必ず新たな事件の真相を探るのに役立つ。行き先は、東山道で峠より前とすれば坂本宿(現在の、岐阜県中津川市)よりも手前。あるいは坂本宿から木曽路に向かうのか。本当にそうであろうか。
結構長々喋った。だがお互い名を明かさぬまま、傀儡女扮する女忍は一人で出て行った。鷹鷲はもうこの女と二度と会うことはないであろうと思った。これで良いのか。今なら未だ声を掛ける事も可能である。任務を捨てて女と逃亡するのも悪くない。しばし葛藤したが、鷹鷲は意を決することができなかった。そして一つ深い溜息をついた。
かりの世の ゆききとみるも はかなしや
身をうきふねの うき橋にして <十六夜日記>
阿仏尼がこの墨俣で六十五年前に詠んだ歌である。鷹鷲が歌を知っていたかどうかはわからない。
鷹鷲は目西が「東に進む」と何度も言っていたことを思い出した。そして、明日からは東山道を進む予定に変更している。もしかすると再び宣政門院懽子の一行と遭遇するかもしれない。この際、この一行の行く先を見届けるのも一興か。もし、それで南朝の宮との密会でも発見できれば。仮にそうだとしてこの方向にいる宮とは・・・・・・・・・・・・信濃宮、つまり一品中務卿宗良親王。