正平二十四年(1369)。伊勢国度会郡篠島。台風一過の晴天であった。すがすがしくのどかな島の光景は平和を感じさせる。

あの日、延元三年(1338)九月のあの日から既に三十年もの年月が過ぎてしまった。夢なのか。であるなら覚めて欲しい。一人だけ年をとってしまった。もう皆とっくに夢から覚めているというのに。あの日、台風がなく遭難しなければ南朝の命運はもっと異なっていたに違いない。
 そしてまた興国五年(1344)のあの日からは二十五年。懽子内親王(宣政門院懽子)と密談をしたその日から諸国の南朝勢力に呼びかけ満を持して正平五年(1350)秋、足利左兵衛督直義殿は我と連絡をとりつつクーデターを起こした。明くる翌年冬、執事高氏一族を滅亡に追い込むことに成功。後に観応の擾乱と言われる。ところが状況が若干悪化したところで直義殿が京を脱し北陸に逃げ去ってしまった。どうなってしまうのかと案じた矢先、何と尊氏、義詮父子が南朝に降伏を申し出てきたのである。京都を奪還し北朝崇光天皇を廃位し念願の南北朝統一を果たした。後に正平一統と言われる。しかし、準備したシナリオとは異なっていた。今思えばこそ、要するに足利尊氏の罠に我々は丸々落ちてしまったのだ。帝は賀名生(あのう)の行宮を出立しいざ京都へ向かったのだが入京目前、石清水八幡宮(京都府八幡市八高坊)で足利義詮に敗退。その後正平七年二月には、尊氏は実弟である足利左兵衛督直義殿を鎌倉で毒殺してしまった。それでも直後の閏二月に新田左中将義貞殿の子義興、義宗らとともに、鎌倉の占拠に成功した。ただそれも尊氏の大軍に攻められ半月後に撤退せざるを得なくなった。その後も一進一退を繰り返した。クーデターから五年の正平十年には桃井直常、斯波氏頼が北朝を再三攻め、延元年間並みの勢力まで回復したのだが。尊氏も必死に対抗。最後には結局京都は尊氏の手に戻ってしまったのだ。

あの秋葉山で思ったこと。夢の中の夢から目覚めたような感覚。それもまた夢の中。それから二十年。正平十三年(1358)、戦で消して死ぬことのなかった尊氏があっさりと逝去してしまった。これもまた夢であろうか。
 それから、さらに十年、世の中は次第に落ち着きを取り戻し、そして我々の存在は少しずつ小さくなり世の中から忘れ去られようとしていく。そして昨年。正平二十三年(1368)異母弟であった帝が住吉の行宮で崩御してしまった。諡は後村上天皇と言う。

あれから三十年。多くの人が敵も見方も、戦であるいは病で逝去していった。何故か自分だけは皆よりもずっと生きながらえてしまった。
 生前、帝から篠島での話を何度か聞かされている。帝はあの小さな島ながら塩気のない井戸水があることをしきりと語っていたい。その井を見つけ出した男。風変わりな人物でいつも西を向いていたと言う。その井戸が見つかる迄、帝は子供だったにもかかわらず、島の神職から水の変わりにお神酒を飲まされたと言う。帝は篠島の話をする時はいつも笑っていた。そして随身だった北畠顕信のことを恩人と呼ぶ。

今年、正平二十四年(1369)吉野に弟後村上帝の一周忌と父後醍醐帝の菩提を弔うために信濃の大河原を旅立った。山間の伊奈の地で人生の大半を過ごしてしまうとは夢にも思わなかったことである。吉野までは伊奈から東山道を抜け尾張の犬山から南下し知多は師崎の羽豆崎城に向かった。そこから海路、伊勢大湊に行きさらに陸路吉野へと向かうために。

 正平廿四年の夏民部卿光資を信濃に留置給ひて尾張國犬山へ出させましまし同じ國羽豆崎より御船にめされ伊勢路を経て經て芳野に御上りあり <信濃宮伝>

 尾張の国の知多郡師崎にある羽豆崎城から海を眺めて一首詠む。

  山路より けふはいそへの さとにきて
             うらめつらしき たひころもかな

 ふと師崎で帝の思い出に出てくる伊勢の篠島に立ち寄ろうと思った。そして、もしそこに未だに帝の井があるならば、その水を飲んでみようと思い。

 そして今こうして眼前に帝井がある。


        





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第二部目次 (甲府・ 東山道編)

    
  

    
  
  
  

  

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