懽子内親王(宣政門院懽子)一行の情報がないまま、とうとう鷲鷹と目西は神坂峠の手前の美濃坂本宿まで達してしまった。目西の言によれば醒ヶ井からここ坂本まではほぼ真東に進んだらしい。鷲鷹には細かい方角はよく分からなかった上、東西南北をどう進もうが無関心なことであった。
 東山道はこの美濃坂本宿から恵那山の神坂峠を越え信濃阿智宿(現在の長野県下伊那郡阿智村駒場)さらには育良(いから)宿(現在の長野県飯田市育良)までは引き続き真東に進む。さらにその先と言えば北上し諏訪に抜ける。がしかし、そもそもここ坂本から北東に伸びている木曽路を使えば木曽川沿いに木曽谷を進み、わざわざ難所である神坂峠越えをせずとも諏訪に抜けることが可能である。実際、後の世の中山道や鉄路である中央線は木曽谷伝いである。一方さらにテクノロジーが発達した後の中央自動車道では恵那山トンネルによって飯田に抜けるというむしろ東山道と同じルートを通る。

 本州のほぼ中央部の飛騨、美濃、信濃、遠江には、日本最大の山脈が三連している。北西から南東に向かい飛騨山脈(北アルプス)、木曽山脈(中央アルプス)、赤石山脈(南アルプス)と連なる。これらの山脈はほぼ南北に伸びており、それぞれの山脈を分断して流れる大河は木曽川(北アルプス−中央アルプス間)、天竜川(中央アルプス−南アルプス間)である。ちなみに、南アルプスの東麓側は富士川が流れる。 目西達のように本州内陸部を真東に移動横断しようとすると必然的にこの三連の大山脈を越えることになる。効率よくこれらを避けて通るには飛騨山脈の南端ともいえる御岳山・乗鞍岳と木曽山脈の間にある木曽谷を抜け塩尻の盆地から諏訪にと続く木曽路ルートとなる。一方、東山道のように強引に木曽山脈の南端である恵那山を越えれば、木曽山脈と赤石山脈の間の伊奈谷に抜けることとなる。伊奈谷は諏訪湖が源の天竜川の造る谷である。谷と言っても中央アルプスと南アルプスに挟まれた間の巨大な地域を指す。山が迫り来る木曽谷の景観とは全く趣を異にする。伊奈谷は広々しており、その言葉が示している地域は実に広く、長さは70キロ、幅は所により20キロを超える所すらある。

 鷲鷹の忍びとしての性分は、懽子内親王(宣政門院懽子)達の動向の把握を欲していた。そこで、先を急ごうとする目西を説得し暫く一行の動向が掴めるまでこの坂本宿に滞在する事とした。この宿で待てば、一行が神坂峠を越えるのかあるいは木曽路に向かうのかが分かる。また普通であれば一つの宿場に長居をすることにより妙な疑いを抱かれる恐れがあるのだが。幸いこの季節のこの宿場では長居は頻繁に生ずる。何故なら峠越えに良い天気を待つのは極普通で、また天気が良く温かい日でも峠越えの支度のため調達に日数がかかる場合等があり、よって長居したとしても怪しまれずにすむのである。ただ支度も万全で天候も良いのに出発せずに滞在しておれば、それはかえって怪しまれるであろうが。
 そして坂本に滞在すること五日。やっと遅まきながら内親王の一行がこの坂本宿に滞在する旨の先触れが斥候役の武人からあった。先触れとは言え明日には内親王が到着すると言うのである。先触れとは後世の江戸時代では普通十日近く前に先触れ役が貴人の宿泊のために宿を下見したりあるいはただ単に通達したりすることなのだが、当時は後世ほど旅行システムが完備されておらず、まして乱世である。あまり先に貴人の到着を知らせると敵に知られてしまう。それゆえ先触れと言っても前日あるいは直前になって通達するケースが多かった。そもそも斥候役は本隊よりも街道の前を行き敵や追いはぎ潜んでいないか偵察することが主務であり、忍びが務めることも多い。その斥候にとって先触れはあくまでついでの仕事である。ここ坂本でもご他聞に漏れず直前通達で、貴人の宿泊に対して準備時間があまりにも少なく駅を揚げての騒ぎになった。
 鷹鷲が旅人等からそれとなく聞き出している限りの情報では、昨日まで近隣の、少なくとも可児駅(現在の岐阜県可児市)までの宿駅に一行が滞在していたという情報は全くなかった。一行のあの手車での移動速度から推定してせいぜい一日二駅程度しか移動できないではずである。可児駅よりさらに遠方から一日では到底ここには達し得ない。しかるに鷹鷲は困惑した。しかし、翌日、実際に一行の様子を見た鷹鷲は得心した。多分、一日のみで、はるか可児駅より遠くの宿駅からここまで来たに違いなかった。実は、手車に乗っていた内親王が一女笠を被り馬に跨り自ら手綱をさばいているのである。手車に較べればはるかに機動性が高くなっている筈である。では何故この数日間は動静が把握できなかったのか。一行はいったい何をしていたのであろうか。鷹鷲が類推するに、内親王はどこぞの牧(まき;牧場)で、多分、勅旨牧で乗馬の訓練をしていたのではなかろうかと。だとすると初めから計画的に京を手車で出発し、途中、牧で乗馬の訓練をし、その後、乗馬にて旅を続ける予定が組まれていた可能性がある。さもありなん。だからこの数日間は動向が全く把握できず、かつ、それから急に速度を上げこの宿駅に達したのではあるまいか。
 いずれにしても乗馬である以上、木曽路を回らずとも天候さえ良ければここの峠は越えられる可能性がある。そしてここの峠を越えれば、馬であれば信濃の大河原には直ぐに着くことができる。信濃宮との密談の可能性は本当にあるかもしれない。
 鷹鷲はこの宿駅で囁かれている種々の噂から内親王一行は木曽路には向かわず、神坂峠を越えるとの判断に達した。そしてその時を待った。 
 内親王到着の翌々日、天候は穏やかで春めいた暖かな日となった。目西と鷹鷲にとっても、そして懽子内親王ら一行にとっても、神坂峠を越えるには良い機会が到来したと言える。律令時代から東山道の神坂峠は難所であることが知られていたが、その道程の標高差のみならず次の宿駅である信濃国の阿智までの距離の長さでも悪名高い。そのため、目西達は早朝に坂本を発った。目西達より極僅かに遅れて内親王達一行も出発した。
 実は、さらにこの一刻後、飛脚数名が神坂越えに出発した。無論、内親王一行も鷹鷲もこのことを知る由がなかった。
 神坂峠の手前約3km 標高約1100mの地点に強清水(こわしみず)と呼ばれる湧水がある。目西と鷹鷲はここで休憩を取った。篠島の帝井よりも、また醒ヶ井の居醒め水よりもこの強清水は冷たく身を切るほどである。回りには薄く雪が残っている。それでも湧水は凍らない。目西の冷静な判断では、帝井よりも居醒め水よりもこの強清水の方が美味いと思った。短い休憩の後また出発した。
 目西達のほぼ半時後、騎馬の内親王一行はこの強清水に到達した。その頃、目西達はちょうど峠に到達した。この峠より先は宮のいる信濃の国である。 

 これより数年後のことではあるが大河原に居ついた信濃宮は神坂峠のことを次のようにうらめしく詠んでいる。 

     まれに待つ 都のつても 絶えねとや 
                  木曾の神坂を 雪埋むなり
 <李花集>
(まれに届く都からの音信を待ちわびているのにそれさえも途絶えてしまえというかのように、木曽の神坂を雪が埋めてしまった)

 峠を越えて下り始めてから一刻半ほどもたった頃であろうか、園原(現在の長野県阿智村園原;中央高速恵那山トンネルの長野県側口周辺)と言われる地区の手前付近で、内親王の斥候と思しき騎馬武者が急坂にもかかわらず見事な手綱さばきで馬を操りながら目西達を追い越していった。多分、内親王の到着を先々の宿駅に触れて回り、また敵や追剥が先々にいないか確認に行くのであろう。ただ敵とは、南朝のことかあるいは北朝自身の政敵のことなのか鷹鷲には定かではなかった。

 信濃国の阿智には思いのほか早くに着いた。ここまで来れば大河原までも丸一日かければ到達できる距離である。早馬であれば半日で到達できるかもしれない距離である。鷹鷲はふと、下り坂で追い越していった斥候役の武人の行き先を考えた。もし自分が件の斥候であれば、電光石火の如く今日中に大河原に行き、先方の様子を探った上で、夜中に本隊(内親王一行)に戻り報告をするであろうと。
 鷹鷲と目西が阿智に着いたとき、案の定、斥候役の武者はいなかった。がしかし、大河原に向かったとするにはあまりにも早い時刻にその武者は阿智に帰還してきた。それから約一刻強後、懽子内親王本隊一行が阿智に到着した。

 翌日、鷹鷲と目西は先回りして大河原に潜伏するために阿智宿を出た。阿智の駒場を出ると直ぐに視界が一挙に開かれる。伊奈谷である。はるか彼方に白く雪を抱く赤石山脈(南アルプス)の峰々が青空の中にくっきりと見えた。昨日に続き穏やかで温かい日であった。山麓や標高の比較的低い場所の雪は昨日から一挙に解けだしている。街道は泥濘で歩きづらかった。育良からは天中川(天竜川)沿いに進むのだが天竜川を目の前にして鷹鷲と目西は唖然とした。雪解けの増水で川幅がとてつもなく広い。しかも流れが速い。普段はあるのであろう中州も水没してしまっている。昨日斥候の武者が早々と阿智に帰還した理由はこれが理由であろう。
 東山道そのものは常に川の西岸、つまり木曽山脈側を抜けるので東山道を進む分には川を渡る必要はないのだが。一方、東岸の大河原に行くには育良の次の賢錐(かたぎり)宿(現在の長野県上伊那郡中川村片桐付近)の手前で天竜川と小渋川の合流地点付近を渡渉しなくてはならない。大河原はさら支流である小渋川伝いに三里ほど上流に進んだ青木川との二股地点一帯にある。
 天竜川東岸は西岸よりも面積的にはずっと大きくまた地形的にも多様である。東山道の通る東岸は木曽山脈の麓に当たり単純に木曽山脈からの川が天竜川に直角に合流する。例えば中田切川や太田切川、与田切川などである。一方東岸は赤石山脈の麓ではあるが、赤石山脈(南アルプス)と天竜川の間には南アルプス前山の連なりである伊奈山地が存在し、この伊奈山地と南アルプスの間にも伊奈谷と平行した長い谷が存在する。しかもこの谷は一直線に伸びていて曲線がない。実はこの谷は地質学で言う中央構造線上にありそれがために一直線なのである。航空写真でも地図でもこの直線の谷は良く目立つ。そしてこの谷筋の川は全て天竜川と同様南北に走るが、流れる向きは川毎に異なる。北から三峰(みぶ)川は北上、鹿塩川は南下、小渋川と青木川は北上、上村川は南下である。この一直線の谷筋は裏街道(秋葉街道)になっており高遠を通り諏訪に抜けることができる。またこの谷筋の中央部やや南こそが大河原なのである。
 伊奈谷は天竜川の東岸と西岸で支配者が異なる。東山道の走る西岸は、元鎌倉の御家人であった小笠原貞宗(さだむね)であった。貞宗は元弘の乱以降尊氏に仕え、北条一族である江間氏の遺領の伊那郡伊賀良荘や信濃春近領などを領し、後には信濃守護となり居館を伊賀良の松尾(長野県飯田市)から井川(長野県松本市)に移している。つまり北朝方の守護なのである。もちろん大徳王寺城の乱のおりの勝者でもある。
 一方、東岸は大草郷(長野県上伊那郡中川村)から大河原まで領有していた滋野氏の一族であった香坂高宗の所領であった。香坂氏の領有していた大草郷から大鹿村にかけての地域は、前述の通り山間の地であり、稲作にむかず古くから牧がその経済を支えていた。そして興国四年、香坂高宗は一品中務卿宗良親王をこの地に迎え入
れた。 よって西岸は北朝方、東岸は南朝方。天竜川は正にその最前線であるため、橋はおろか浮き船も渡船もないのである。ちなみに元弘の乱以前には東海道ではあるが天竜川に橋が架けられたことがあった。正中元年(1324年)、たかだか信濃宮大河原入りの二十年前のことではあるのだが、時の鎌倉幕府は称名寺(現在も称名寺;神奈川県横浜市金沢区)の剣阿(けんあ)に対して東海道の往来の利便性のために天竜川への架橋を命じているのである。

 増水した暴れ川では、船なしでは到底渡川できない。ただでさえ南北朝の境界線となっているため渡川は制限される。やむなく目西と鷹鷲は大河原入りを断念せざるを得なかった。どのみち内親王一行もこの川を簡単には渡川できまいし。
 そこで二人は天竜川伝いの道を下流に進んだ。その道は東山道のような幹線の鎌倉街道ではない。それでも脇往還道クラスの比較的整備された道である。天竜川伝いに遠江あるいは三河まで繋がる往還道であろうか。

 暫く歩いた先に立派な山門のある寺が見えてきた。建立されてから未だ年月を経ているとは思えない甍や柱の色。比較的新しい寺である。どうやら臨済宗寺院らしい。もしかするとこれは諸国寺塔毎国各一所の寺ではなかろうか。山門の前で鷹鷲は寺号を見た。そこには畳秀山(じゅうしゅうざん)開善寺(現在も畳秀山開善時、飯田市上川路)と記されていた。ここに暫く投宿でもして内親王の動向を探るほうが、大河原に向かうよりも得策かもしれない。鷹鷲はそう思った。

 美濃坂本を懽子内親王一行よりもさらに一刻後に出発した件の飛脚は、信濃阿智に到着すると駅屋には向かわず宿屋に向かった。翌日、再び宿から出てきたときには彼らは網代傘をかぶった雲水の姿をしていた。目西や鷹鷲と同様に。


       





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