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材木座に来てから一週間も経つと幸い頭痛の頻度が減り始めた。と同時に携帯だけでは情報不足なのを美佐子は痛切に感じた。美佐子の周囲の人々は携帯へ長文のメールや添付ファイルは送付しないようにしている。確かに些細なことは携帯メールで特に晴彦から送られてくるのだが。一方、先週、須坂父子に会って以来、百万塔に関する情報は何も入ってこなかった。
実はこの実家にもデスクトップのパソコンがあった。美佐子の両親は先日誰にそそのかされたのかADSLから光ファイバーに変えていた。おかげでネット環境はむしろ実家のほうが良いぐらいである。そのパソコンに自分のメールアドレスとsmtpサーバーをセットして須坂父子と三杉真里にメールを出した。東と野本は宛先に加えずに。中味は単なる近況報告でしかないのだが。ただ最後に百万塔に関する新たな情報があれば送付して欲しいとも記した。
早速その翌日、智から材木座海岸やレストランで話した内容に関するメールの転送信と、それに続く約一週間分のメールのやり取りが届いた。元のメールは39度40分40秒線上の地名とファミレスで議論したストーリーに関するメールである。
送信者: ”須坂 智” <satoru@mfx.hink.ne.jp> 宛先: ”岩井美佐子” <m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp> 送信日時: 20**年4月16日 23:08 件名: FW:続北緯34度40分39秒線 |
岩井様 転送します。 百万塔レプリカに関する北緯34度40分39秒線上にある地名、寺のリスト(西から) |
美佐子はこの後、三杉真里の質問メールとそれに対する智の返答メールを続けて読んだ。驚いたことに途中からCC:ではあるが野本のアドレスが加わっていたい。何か美佐子には気がかりであった。野本に伝わったと言うことは東にも伝わっているのだろう。だからか。多分、そんなことではない。ただもっと漠たる不安感が広がったのである。自分が百万塔に関するディスカッションに全く参加できていないからかもしれない。そんな不安感から解放されたくて散歩がてら鎌倉駅の近くにあるスーパーに買い物に出た。日曜日、街は鎌倉祭のためごったがえしていた。 結局、山梨ではありえないほどの人混みを見て、美佐子はかえって疲労感を増して帰宅しただけであ
った。
ゴールデンウイークまでメールはさっぱり美佐子の手元に届かなかった。休暇中の晴彦が鎌倉に来た。晴彦がいると益々もって自分が情けなく思えてしまう。皆やはり私のことを避けている。そんな妄想にまで考えが到る事が頻繁となってきた。しかし、ゴールデンウイーク中に着信した須坂教授からのメールの内容を読み美佐子は安堵した。
送信者: “須坂 紀雄”<n-suzaka@joetsu***.ac.jp>” 宛先: “岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp> 送信日時: 20**年5月3日 5:06 件名: タコマから |
皆様へ こんにちは、上越**大学の須坂です。今、ワシントン州のタコマという街に妻芳子とおります。タコマはシアトルの南50kmに位置する港町ですが背後に富士山より高いレーニエ山が見えます。学会での私の発表は昨日すでに終了してしまいまして、妻と二人で観光モードです。今日ツアーバスでマウントレーニエ国立公園に行き芳子ともども始めて氷河と言うものを見学しました。その雄大さに心打たれました。 芳子が突然、学会に一緒に行くといい始めた時は仰天しました。智をどうするのか。芳子の言を借りれば、もうあの子は心配ないでした。表向きは。でも実は芳子も悩んでいたようです。本当に智を一人にしてもよいのか。逆に一人にして自立を促すべきでは。あの子はスーパーやコンビニですら物を買ったこともない子です。大学入学以降、芳子は智が自立生活できるように様々なことを教え続けてきたことを私は後で知りました。いざフライトの予約をしようとする段になって逆に芳子が心配しはじめやっぱり止めるといい始めました。この時はむしろ私のほうから芳子にもう一度ハネムーンに行こうと誘いました。 携帯で話している限り智も無事に過ごしているようです。本当に私ども夫婦は恵まれているのだと思います。最近よく智のゆっくりながらも一歩一歩成長する姿を見るにつけ、私は肩の荷を少しずつ下ろしているのだと自分勝手な思いに浸っておりました。しかし今まで肩に荷を背負っていた気がしておりましたがそれは誤りであることに今回の旅行で知ることができました。そもそも荷物など背負っていないわけですから。持っていたとすれば宝です。宝を誰が捨てますでしょうか。一生大切に身に着けているはず です。 正直、皆様へメールでこのようなことを書くべきなのか。でも今、私の率直な気持ちを伝えずには入られないとでも申しましょうか。ついメールを書ました。 それから、追記ですが、このところ皆様、百万塔に関する話題が随分と減ったように思われますが。本当に智が考えた東西氏のシナリオを信じてよいのでしょうか。 紀雄@タコマ |
美佐子はこのメールを読み様々な意味で安堵した。安堵するとともに涙が溢れ出した。須坂家の人々のこと。宛先の筆頭を美佐子にして出した須坂教授の思いやり。また、最後の追記分で自分だけが議論から外されていたのではなく本当に皆メールを出していなかったことが分かったこと。本当に美佐子は安堵した。そして、もうそろそろ、このうじうじした状態から目覚めなくてはと切に感じた。
この須坂教授のメールへの返信と言う形は取っているものの明らかに美佐子宛の衝撃的なメールが真里から届いたのはこのメールから三日後のことであった。
送信者: ”三杉真里” <misugimari@nif**.com> 宛先: “岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp> 送信日時: 20**年5月6日 22:32 件名: Re: タコマから |
岩井様、皆様
お世話になっております。山梨県立**図書館の三杉です。 |
三杉からの強烈なパンチである。それも二連発である。入籍。それも野本とである。これだけでも目は充分覚める。それにも増して最後の一文は挑戦状。良く解釈すれば、もういい加減休暇は止めて仕事に復帰したらどうというお誘いかもしれない。
美佐子は体内から久しぶりにエネルギーが湧き上がるのを感じた。もし真里がそう言うのなら受けて立つわよ。何かに挑戦しなければ今の仮面鬱状態からは所詮抜け出せない。必要なのは休息ではない。そんな気が美佐子にはした。と同時に、もう居てもたっていられなくなってきた。確かに寺宝交換は妙かもしれない。しかし、そうではないとしてその手がかりは。どうすれば解ける。分からない。このまま分からないということで何もやらないのでは今までの自分と同じ。兎に角、何かをしなくては。 翌日、終日インターネットで検索をしまくった。頭痛。確かに若干ではあるが頭痛はする。でも調べ続ける。残念ながらヒントは見つからなかった。どうすべきか分からない。でも今の美佐子は行動を先行させる必要があった。行動。手がかりを見つけるにはまず現場にいかなくては。現場。それは、・・・篠島や貞永寺。ネットの乗り換え案内で直ぐさま検索。明朝には出よう。
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美佐子は結局、何も得ることなく篠島を去った。でも特別に焦りがあるわけではない。もう美佐子は仕事を再開しているのだ。ある意味それで満足であった。
師崎で高速船を降りた後、美佐子は幡豆神社にあるウバメガシの社叢を見に行った。以前、須坂教授が語っていた叢林の印象は確か明るく風通しの良い林であった筈である。しかし美佐子は随分異なった印象を持った。木々の枝ぶりが奇妙なのである。真っ直ぐ上に伸びずかなり傾いている。そしてその奇妙な枝で通り道がトンネル状に覆われている。さらに今日は曇りである。それが故かある意味不気味な印象を持った。実は風衝樹形と言い風当りが強い場所でこのような樹形に木が成長する。この林の木で百万塔レプリカの相輪部を作ったなんて結構あのレプリカも不気味だな。美佐子の率直な思いである。
目に映る枝ぶりをぼっと眺めていてしばらくすると意識が飛んでしまうような気がした。意識を元に取り戻さなくてはと思い、やっとそもそものこの唐突な旅の目的を思い出す。そう、どうして百万塔レプリカは遠江安国寺から甲斐安国寺に移動したのか。しかしまたウバメガシを見つめ別なことを考えてしまう。多分、何か追求する際、普通は何某かの説を立てその説を検証するように動くのが当然なのだが、今回美佐子には何も説と言うものがなかった。だから逆に言えば手ぶらで篠島を去っても悔いがないのかもしれない。
曇ってはいるが展望台からは佐久島、日間賀島、篠島さらには神島が見えた。景色は綺麗だと思ったもののこれと言って景色を見ていてもヒントは何も得られなかった。そこで展望台から神社に向かい参拝する。二礼二拍手。まずは綾実が健やかであることを願う。次いで晴彦が浮気をしないこととこの謎が解けることを。それから自分の仮面鬱病が治る事を願った。そして一礼。自然とこの順番で願ったのだ。これが今の美佐子の素直な優先順位なのかもしれない。参拝を終えて少し気が楽になった気がした。まあいいか。収穫はないけどそろそろ引き上げよう。
河和行きのバス停に戻る道すがら行きには気がつかなかったのだが随分と立派な石碑が建っていた。石碑は篠島の方向を向いているように思えた。職業柄というか、ついしげしげと観察してしまう。まず美佐子の目は年号を探した。石碑の裏に年号があった。大正年間である。裏面には「野口翁遺嘱 大正二年八月吉日青木新九郎建」と刻まれていた。全く知らない人物である。それから徐に表の碑文に目をやった。
山路より けふはいそへの さとにきて
うらめつらしき たひころもかな
と書かれている。 和歌のようである。また石碑の銘には宗良親王御詠歌碑と刻印されている。宗良親王って。比較的歴史に詳しい美佐子でもピンとこない。そうだ電子辞書。実家に置きっぱなしになっていたためずっと使っていなかったハンティングワールドのトートバックで来ている。その中から電子辞書を取り出した。実はこの電子辞書はメモリーカードにダウンロードしてある音楽を新幹線の中で聴くためのi−pod代わりとして持って来ていたものなのである。
【宗親王(むねよししんのう)】
(ムネナガともよむ)後醍醐天皇の皇子。天台座主、尊澄法親王と称。鎌倉幕府倒幕運動に加わり讃岐に流されたが幕府滅亡後還任。のち還俗。征東大将軍。吉野から東国に下る途中遠江に漂着、信濃など所々に転戦、再び吉野に帰る。「新葉和歌集」を撰し、歌集に「李花集」がある。(1311〜) (広辞苑)
えっ、後醍醐天皇の皇子。てことは、義良親王のお兄さん。多分異母だろうけど。どうしてここに石碑があって歌を読んでいるのかしら。遠江と信濃。おしい。遠江と甲斐ならば。でも近い。何か関係があるのでは。でもここでは調べようがなかった。美佐子は何度か歌を口に出して詠んでみた。
「山路よりけふはいそへのさとにきてうらめつらしきたひころもかな」
河和行きのバスが来るまで時間があった。ふと美佐子は須坂智宛に携帯でメールを打った。
To: satoru@mfx.hink.ne.jp To: n-suzaka@joetsu***.ac.jp Sub: 宗良親王 |
[本文]
こんにちは、岩井美佐子です 美佐子 |
送信 |
美佐子が名古屋でのぞみに乗った時には曇りのせいか薄暗い時刻となっていた。三人がけの通路側席。ビジネスマンでほぼ満席である。出発し、ふと美佐子は頭痛がないのに気がついた。