初春とは言え寒い日々であった。藤林鷹鷲とともに目西も雲水の姿をしていた。雲水の作務衣は薄手の生地のためなおさら寒い。寒さに耐えることも修行の内なのである。雲水は北朝側支配地域を旅するには比較的襲われることの少ない姿である。禅林が武士に、そして何より足利家に尊ばれていたためであろう。雲水が北朝側の忍びであることも多々あったが、この二人は逆である。一方南朝側での忍びの最もポピュラーな出で立ちと言えば修験者であろう。ただ修験者は当時、強い法力の所有者と一般に信じられており忍びにとって変装時の立ち振る舞い方が難しいとされていた。それに対して目西は雲水としての立ち居振る舞いを年季の入った鷹鷲から教授されるまでもなく自然と身につけていたのである。例えば、両手が空いているときは必ず叉手(さしゅ)をし、礼や挨拶をする時は合掌をする。しかし
彼らはあくまでも姿形だけの雲水。だから彼らが坐禅修行のために、師家(しけ)を求めて各地の僧堂を訪ねるようなことや托鉢などは絶対に行わない。また鎌倉街道筋での宿泊もよほどのことがない限りは僧坊に泊まらず宿駅にある一般的な宿屋に泊まる。ただ野宿や僧坊は無料であるのに対して、既に貨幣経済が普及していた当時の宿屋は地域の有力者が金儲けの為に開いているものが多く出費がかさむことにはなる。
 目西は出立に際し夢想疎石から遠江国金剛山貞永寺の南溟和尚宛の書状を託された。その書状を件の百万塔の中に入れ持ち、二人は夜明け前に京都の粟田口を出発
した。

 京から遠江に向かう道は無論東海道だが鎌倉街道としての東海道であって江戸時代の東海道とはルートや宿駅が異なる。京を出て野呂宿(現在滋賀県草津市)で美濃路と鈴鹿路の二つのルートに分かれる。美濃路は現在の東海道線、東海道新幹線、名神高速及び江戸時代の中山道とほぼ同ルートで琵琶湖東岸に沿って不破の関(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)、垂井(現在の岐阜県不破郡垂井町)、黒田(愛知県一宮市木曽川町黒田)等を経由し尾張へと続く。尚、黒田付近は岐阜を経由し信濃方面へと続く東山道(中山道)と尾張方面へと続く東海道美濃路の追分である。一方の鈴鹿路は現在の国道一号線や江戸時代の七里の渡し部分を除く東海道とほぼ同ルートで鈴鹿峠を経由し尾張へ。再度合流するのは尾張の萱津(かやつ)宿(現在の愛知県海部郡甚目寺町大字上萱津)である。
 この時期の美濃路は伊吹山付近で積雪があることが多いために鎌倉へ向かう場合は敬遠するのが一般的である。また、美濃路を行けば佐々木佐渡判官入道(道誉)所管の近江国、土岐頼康所管の美濃国と北朝方有力武将の領内を通過することとなる。鈴鹿路であれば伊賀を経由し北畠領内である伊勢を通り尾張に抜けられるのだが。しかし鷹鷲と目西は北朝方にいて雲水に扮しているのだ。そのため北朝方の領内である美濃路を旅することを選ぶ方がむしろ自然な考えであろう。

 美濃路を行く場合、京を出て初日は守山宿(現在の滋賀県守山市)か鏡宿(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)に宿泊するのが一般的である。後の時代ではあるが「京立ち守山泊り」と言われたほどである。鷹鷲と目西は忍びである。特に先を急ぐ旅ではないものの、忍びの性分から街道をのんびり進むことができない。京から守山のほぼ三倍の距離に相当する醒ヶ井宿(現在の滋賀県坂田郡米原町醒ヶ井)まで初日のうちに進んだ。それでも未だ日没には至っていなかった。しかし案の定、手前の小野宿(現在の滋賀県彦根市小野町)を過ぎてからは積雪があり、進行とともに深くなっていった。それで二人は已む無く醒ヶ井に宿泊することにしたのである。

 醒ヶ井は今も当時も湧水で名を馳せている。西行法師の泡子伝説で有名な西行水。西行が東遊のとき、この泉の畔の茶店にいる娘が西行の飲み残しの茶泡を飲むと懐妊し男子を出産した。その後西行が関東からの帰途、再度この茶店で休憩し件の子を見た西行は、
今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ
と念じ、さらに、

      水上は 清き流れの 醒井に  
                浮世の垢を すすぎてやみん 

と詠むと、児は忽ち消えて元の泡になったという。そこで西行はここに五輪塔を
建て、

       泡子墓 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡
と記したと言う。目西は、鷹鷲は、この五輪塔を果たして目にしたのであろうか。

 また、地蔵川の水源である居醒め水。街道を往く旅人はこの名水を必ず口にしたと言う。湧水の温度は年中ほぼ一定でいかに雪が積もっていても温かい。目西は篠島で自ら見つけた「帝井」でそれを体感していた。居醒め水は確かにうまい。目西は味覚にも感情を持ち込まない。孤島で真水に飢えて飲んだときの「帝井」の水と較べても居醒め水の方がうまいと判定できる。もしこれが北畠顕信や二見貞友であれば間違いなくあの時のほうがうまいと主張したであろうに。

 翌朝、前日の早出と打って変わってやや寝過ごしたきらいがあった。前日の強行軍のせいであろう。これは一般的なことで旅に出た最初の宿駅での宿泊とはこんなものである。幸い晴れていた。しかし日中気温が上昇し街道の雪が溶け始めると泥道となり雪道以上に歩行し辛くなってしまう。醒ヶ井から不破の関を越え垂井の手前当たりまでが積雪地帯である。そこを越えれば現在で言う濃尾平野となり木曽三川を越えることとなる。何とか鷹鷲は今日中に三川を渡り尾張黒田あるいはその先に達したいと思っていた。
 不破の辺りは案の定結構な積雪であった。不破の関は歌枕(和歌に詠まれ有名になり名所化しているもの)としてだけの存在となっていた。

       人住まぬ 不破の関屋の 板庇 
                 荒れにしのちは ただ秋の風 

新古今和歌集藤原良経の歌である。律令時代の終焉とともに不破の関は関所としての機能を終えた。平安時代以降はこの歌のごとくで、ただ天皇崩御のときなど大事の時のみ固関使(こげんし)が勅使されるという儀礼だけは残り江戸時代まで伝えられ
た。

 不破と垂井の中間点あたり。日もかなり高くなり暖かくなってきた。そのため道の雪はすっかり溶け酷い泥濘(ぬかるみ)が至る所にできていた。その中をいかにも北朝側の騎馬武者が二十騎ほども泥を巻き上げながら全速力で彼らを追い抜いていった。元弘の乱から続く南北朝の一大騒乱期である。騎馬武者が街道を疾駆していくことなど日常茶飯事であるのだが。 そこから十町(約1.1km;36町=1里=3.927km)程進んであろうか。手車(てぐるま)が泥濘に車輪(くるまのわ)を取られて立ち往生していた。手車とは、牛車の牽引が牛であるのに対して人が引く車のことである。つまり轅(ながえ)を牛ではなく人が引く。都大路は兎も角としてこのような街道を車で往くとはかなり珍しいことだ。普通乗り物で旅する場合は手輿(たごし)の場合が多い。現在と異なり凹凸の激しい道あるいは河川の渡渉などを考えると車より輿の方が機動性に富む。車で街道を往くのは一般に重量物運搬のときである。が、この手車運搬用ではなく屋形があり貴人が中にいるらしい。さらに屋形は青糸毛である。手車は牛車と同様で乗車する人の身分や利用目的に応じて屋形の形態が異なる。牛車で青糸毛と言えば普通皇后や皇太子クラスが乗る。手車とて同じで相当な貴人が乗っていることが容易に想像される。さらに車の前方の簾から下簾が約1メートル垂れ下がっており出衣(いだしぎぬ)がされていた。出衣は車に乗っているのが女性ですと言う印であり牛車の時代からの伝統である。果たしてどの女性皇族の一行なのであろうか。目西も鷹鷲も忍びである故か、ことさら驚くでもなく状況を冷静に観察した。
 先程、彼らを追い越して行った武者達が手車を泥濘から脱出させようと押したり引いたり奮闘していた。武者達はこの手車の救出のために呼び出されたのであろう。彼らとは別に明らかに武士ではない馬上の人々が十人以上はいる。一女笠を被った騎乗の女も数人はいる。多分、随身や従者や侍女達なのであろう。彼らは馬にのったままで泥の上に降り立とうともしないで様子をただただ見物していた。そもそも護衛の武士はいなかったのであろうか。それとも今救出に当たっている武士の内の何人かは手車の皇族の護衛なのか。
 ちょうど手車が立ち往生している場所の上は桜の巨木の枝で覆われており、比較的頻繁に雪解けの水滴が作業中の人の頭や背中に当たっていた。
 鷹鷲と目西は一群に見つからないように街道脇の土手に身を潜めた。鎌倉街道はそもそも軍用道として整備されたものであり、道幅約6メートルの両脇には軍団保護を目的とした高さ2メートルの土手がある。この土手のために道そのものの水はけが悪くなってしまっているところがある。二人はその土手に身を隠しながらこの一行を観察し続けた。
 手車後方の御簾(みす)が上がり中に乗車している貴人が顔を出した。果たして皇后なのであろうか。鷹鷲は顔を凝視した。齢は三十前後か。鷹鷲はどことなく顔が隣にいる目西に似ているのではと感じた。鷹鷲に浮かんだ北朝方の后と言えばまず光厳上皇の中宮であった懽子(かんし)内親王だ。懽子内親王の父は先帝(後醍醐帝)、母は先帝の中宮(西園寺禧子・・・目西の母、つまり懽子内親王は目西の異父姉にあたる。鷹鷲はこの事情を知らない)懽子内親王は先帝崩御の後、光厳上皇とは離婚し出家していた筈。また院号を賜っており宣政門院と称している筈である。何故、この街道を往くのか。この時期にわざわざ鈴鹿路ではなく美濃路を行くのは鎌倉下向ではなく東山道に向かうためであることが類推されるが。とは言えこの時期の東山道の峠道を行くのはかなり厳しい。皇后が伊勢神宮や鎌倉以外のどこに行くと言うのか、または連れて行かれようとしているのか。鷹鷲は忍びとして興味を覚えた。
 暫くして武人達の努力が報われ手車は泥濘を脱出した。脱出しても彼らは即座には出発せず武人の棟梁と随身が暫く話し込んでいた。鷹鷲と目西はこの騒動に巻き込まれないように土手の外を暫く歩き一行を抜き去った。 

 目西と鷹鷲は予定よりかなり遅れて垂井を過ぎた。笠縫宿(現在の大垣市笠縫町)を過ぎた頃にはもう夕焼けが出ていた。出発が遅かったこと。道が雪路と泥濘で歩速が遅かったこと。途中手車の立ち往生を半時以上も観察したこと。以上から予定に対して大幅な遅れとなってしまっていた。それでも何とか杭瀬(くいせ)川は日暮れ前に越えたのだが。この季節、日が暮れるのが早いので墨俣(現在の岐阜県大垣市
墨俣町)の渡しは早い時刻で終了してしまっているらしかった。揖斐川、長良川、木曽川がこの墨俣で合流している。(現在は合流していない)この墨俣で三川を越えればもうそこは尾張の黒田であるのだが。しかし、冬場にこれを渡し船なしで越えるのはたとえ忍びでも不可能である。まして夜間では。

 平時では船を並べた浮き橋が常設されていることが多いのだが、元弘の乱以降続く動乱期のため軍団が渡河するとき以外、浮き橋は外されてしまう。

 墨俣とかやいふ河には、船を並べて、正木の綱にやあらむ、
 かけとどめたる浮橋あり。 いとあやふけれど渡る。 
<十六夜日記>

六十五年前、阿仏尼が鎌倉下向でここを渡渉した時にこうログ(十六夜日記)に記しているが、残念ながら今は浮き船がない。

  宿に着くと目西はまず、螺鈿蓋の例の箱から折りたたまれた半紙を取り出し、何かを記入し始めた。実はその日一日歩いて映像的に写しとった記憶と感覚で知った方位とさらに歩数から、目西は旅をするとき歩数を勘定する習性も持っているのだが、それらを関連付け歩んだ経路を精密に図にしているのである。
 図を見ながら目西は鷹鷲に尋ねた。
「今日、醒ヶ井から墨俣までほぼ直線的に東に進んだ。明日からも東に進むのか」
「予定ではこの先の黒田から南下し萱津、熱田、八橋(現在、愛知県知立市)と進み、三河に入るつもりだが」
「どこから信濃大河原へ向かう」
「東海道をそのまま遠江へと行き、一度貞永寺により落ち着いてから再び出立し、天中川(天竜川)辺りから秋葉街道に入り北上し信濃大河原へ行くつもりだが」
「東山道を東にひたすら歩き信濃へ行き大河原へいったほうが早い」
「確かに距離的には早いかもしれないが、美濃と信濃の境に神坂峠(みさかとうげ、現在も神坂峠;岐阜県と長野県の県境で中央高速恵那山トンネルの真上に当たる場所)と言う難所がある。この時期は雪でそう簡単には越えられまい。軍隊ですら真冬には神坂峠越えは避ける。修験者とかあるいは飛脚とか、あとさもなくば山人だけだな。冬でも越えるのは」
「東に進む」
「当然忍びも越えられるが」

「東に進む」
「拙者は大丈夫だが、お主は大丈夫か」
「東に進む」
「峠越えはかなりきついぞ。それに吹雪いていたら手前の坂本で足止めとなるぞ」
「東に進む」
鷹鷲が同意しない限り目西は同じことを言い続けるであろう。
「あい解った。あい解った。明日、黒田から東山道に入ろうな」
「東に進む」
「あい解った。あい解った。東に進む」
「あな、東に進む」
鷹鷲は目西の性格を心得ていたが、やはり溜息が出た。


        


東山道地図






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