興国四年(1343)も過ぎようとする頃。鎮守府将軍北畠顕信は南出羽の藤島城(現在の山形県鶴岡市藤島(八幡神社)藤島城跡)に居て、周辺豪族達の南朝繋ぎ止めあるいは敵方豪族達の寝返り工作のためのインセンティブで悩んでいた。この手のインセンティブと言えば、官位授与、知行、所領安堵などだが。例えば所領安堵でも親王クラスが発給する令旨か帝の綸旨が最も重要視される。しかし現時点でこの南出羽には親王はいない。また今や南朝側は関東拠点を失っており、兵站さらには資金調達のみならず中央つまり吉野で発給する令旨や綸旨の送付に関してすらも苦慮し始めていた。顕信の奥州軍としては信濃の大河原を本拠地とする信濃宮の令旨が最も得やすいと言えるが、東山道を経由しても遠い道のりである。また、ものがものだけにどうしても武士より忍びや修験者等を多用してしまうこととなる。

 延元四年(1339)から始めた天龍寺の普請は順調には進まなかった。障害のうち財政難は天龍寺船による貿易での利益によって克服されつつあった。がしかし障害は他にも色々とある。叡山等山門は足利幕府の禅門厚遇に対して不満をつのらせており、頻繁に普請を妨害していた。かつて大塔宮が、また信濃宮が天台座主であった叡山である。当然、足利幕府に好感情を持つわけがない。実は天龍寺普請以前から夢想疎石が提唱していた「諸国寺塔毎国各一所」という事業に足利尊氏が賛同し夢想色の強い禅寺が北朝側の躍進とあいまって全国各地に広がる気配があり、中には天台宗寺院から禅寺へ転換する寺まであり山門はかねてから夢想を敵視していた背景もある。疎石が提唱していた諸国寺塔毎国各一所とは、元弘の乱(鎌倉幕府倒壊)以来の敵味方一切の戦没者の鎮魂と、戦災の悪因縁からのがれ天下泰平を祈るため、国ごとに一寺一塔を設置するというものである。尊氏卿はこれを宗教的な理由からのみならず政治的、軍事的な利用を念頭に設置推進を図った。そのため寺院の設置場所はおしなべて北朝側の軍事上の要地となっていることが多い。例えば街道沿いであるとか、軍団集結地であるとか等々。従って、足利尊氏あるいは直義から直接、候補寺院に沙汰がある場合もあるし、逆に足利尊氏方の守護大名が軍事要地に新たに開基建立するか、既存寺院をこの事業用に転用するなどして設置される。寺紋は原則、足利尊氏卿の開基であるが故、当然足利家の紋である二両引き紋が使用された。
 遠江国の貞永寺もそんな寺の一つである。遠江の守護である今川貞世(さだよ;法名は了俊)が九州大友氏一族の田原豊前守貞広の次男で夢想疎石の法弟である南溟(ナンミョウ)和尚(勅謚、仏照大光禅師)を請じて、諸国寺塔毎国各一所の寺とすべく真言宗の荒れ寺を臨済宗の寺院として再興した。もともとは貞永二年(1233)に四条天皇の綸命により建立された真言宗寺院であったのだが。鎌倉幕府が倒壊した頃には早くも荒寺となっていた。たかだか百年足らずで荒廃してしまう程度の寺である。にもかかわらず今川貞世がここを再興したのには訳がある。それはまさに北朝側の軍事的理由によるところが大きい。当時、井伊谷の三岳城に居た南朝側一品中務卿宗良親王(信濃宮)を監視するためであり、また貞永寺一帯の浜が南朝の伊勢海上ルートにおける揚陸拠点とされることを防止する前線基地としての役割のためである。ちなみに今川貞世は今川範国の嫡子である。延元三年(1338)夏に伊勢からの海路、南朝側の一部が天竜灘で難破し白羽に漂着した。この軍を率いていたのは宗良親王で、突然の敵方の漂着に驚いた今川範国はこの機会とばかりに親王の隊を襲った。がしかし親王隊に呼応する形で南朝方の井伊高顕や天野景隆らが今川の背後を着き親王は井伊谷の三岳城に入城し難を逃れた。このようなことは今川側あるいは幕府側にとっては好ましからざる事件である。二度とこのような不祥事が起こらないようにと、この地点にあった荒れ寺を諸国寺塔毎国各一所の寺として、というよりも寺の名を借りた軍事拠点として再興したのである。諸国寺塔毎国各一所の寺となれば純粋な砦を築くより予算的にも周辺の百姓達の感情を鑑みても容易だったからである。

 天龍寺の造園も佳境に入っていた。四神相応の方位でかつ夢想の理想に矛盾せず、さらには建屋からの見栄えも考慮した位置に池や築山の配置が決まった。その後、何度も石組みはやり直しがあった。石を配した後に何本か植樹をしたがこれまた幾度も植えなおしをさせられた。疎石の理想への固執は目西には充分理解できたのだが、山門衆徒からの嫌がらせや相次ぐやり直しに夢想の弟子はもとより目西ですらも正直辟易していた。
 そんな興国四年(1343)も過ぎようとする頃であった。とある雲水に扮した伊賀藤林党の忍びが鎮守府将軍北畠顕信の使いとして目西を訪れた。齢は四十過ぎ、いかにも下級武士から出家し修行僧になった様に見える。その雲水と目西は初めのうちは全く会話を交わさなかった。が目西にはその雲水が伊賀の忍びであることが直ぐに分かった。くせ、匂い、あるいは振る舞い、同類の者だけに感じ取れるもの。どんなに姿形を変えようともそれで忍びは忍びを見分けることができる。例えば、普通の人でも、かつて方言をしゃべっていた者が標準語をしゃべっている場合、その者の標準語を聴いた同郷の者にはその者が同郷者であることが直ぐに分かるように。まさにそれと同じ原理である。
 暫くしてからではあるが、雲水に扮したその忍びと目西は意思疎通を図るようになった。庭の造りたての石組みの前でじっと西を向いている目西に雲水がしゃべり
かけた。
「拙僧はそこの石組み龍門瀑と思いまするが」

 「紅尾(鯉)は禹門の波と競って、争って三級岩を超える(鯉さえも、禹門が切り開いた龍の激流に向かって、争って三段の滝を越えようとする)ついには、鯉は滝を登りきって、大空を飛翔する龍となる。詰まるところ雲水殿は信念を篤くして修行に徹し、志を堅く持って悟りを得なくてはならない」
 目西は夢想疎石かその弟子から聞いた龍門瀑の意味をそのままそっくり目の前の雲水に西を向いたまま語った。この雲水に扮した忍びは北伊賀藤林党の鷹鷲と称した。この目西の答えにやや鷹鷲は驚愕した。こやつ何者と。鷹鷲は単刀直入に北畠顕信からの要請を目西に伝えた。要は一品中務卿宗良親王(信濃宮)を監視し状況を東国の顕信に伝えて欲しいと言うことである。どこで、いつから監視するか等というような仔細は一切ない。目西の裁量に任されているとのこと。そして鷹鷲自身は目西の言に従うように指令を受けている。正直、鷹鷲は目西を見て、話して、この若造に従うに若干の抵抗を感じた。

 天龍寺は先帝の菩提寺とするべく造営中ではあるが所詮北朝の事業であり北朝の所有物なのである。そしてまた夢想疎石の集大成としての事業でもある。当然、そこには北朝側の情報や疎石の提唱した様々な寺の話題が噂として流れてくる。中でも半ば軍事拠点である諸国寺塔毎国各一所の寺の話は豊富であった。というのもこの時期、正に諸国でこの軍事寺院の開山が相次いでおり、中央(ここ)にいる疎石の法弟達にとっては、開山和尚として請われる可能性もある上さらに将来、生きているうちに禅師号を勅謚(ちょくし)される可能性すらあり、従って彼らは四六時中、諸国寺塔毎国各一所の動向を気にかけ、また噂をしていた。それら噂は忍びとしての訓練を受けてきた者達には格好の情報ソースとなる。鷹鷲の耳にも、また目西の耳にもおのずとそれら情報は入った。時として、僧達の話ではあるのだが、開山話と同時にその寺の軍事目的が何であるかなどの情報が付随していることもあった。

「武蔵国の市川山見性寺(現在の龍門山高安寺)が尊氏卿の発願で新たに諸国寺塔毎国各一所の寺にする可能性があるらしいが」
「さようか。確か、あの寺は先の大乱(元弘の乱)のおり新田左中将殿が本陣にしていた筈だからの。鎌倉街道上の道沿いにあるからの。確か大乱で見性寺は炎上したのでは」
「さようさよう。しかるに今まさに諸国寺塔毎国各一所の寺とすべく再建を開始するのだそうだ。もっぱらの噂では開山は建長寺の大徹心悟和尚(禅師)が内定しているとか。まあ寺が建つのは数年後故、開山候補は未だ変わるかもしれませんがの」
「さようか、疎石和尚の建長寺時代の法弟の大徹和尚が開山と言うのは頷けますな」

この類の会話が日常茶飯事で行われているのである。

「聞きましたか。駿河国の諸国寺塔毎国各一所の寺の話」
「ええ、ええ。承元寺(現在の神護山承元寺)のことでしょう。天台宗の寺だったとか。またまた山門衆が騒ぎ出しますな。桑原、桑原」
「それもそうですけど、開山の大喜法忻和尚(謚、仏満禅師)という人物ご存知
ですか」
「初めて聞く名前ですね」
「今川氏の方だそうですよ」
「疎石和尚の法弟でもないのに開山とはね」

「今川氏は足利卿のお血筋ですからな」
「さようか」

 この噂話の続きに、信濃宮監視を目的とした諸国寺塔毎国各一所の寺の噂が続いた。
「そうそう今川氏と言えば駿河の隣国遠江の守護ですよ。その守護の今川貞世殿が諸国寺塔毎国各一所の寺とすべく真言宗の荒れ寺を臨済宗の寺院として再興開基したという話もありましたね。昨年でしたか一昨年でしたか」
「ええ、遠江国の貞永寺でしょう」
「うわさでは、南朝側一品中務卿宗良親王を監視するためだとか、あるいは南朝の伊勢海上ルートの見張り場であるとかで」
「物騒な話しですな。そのような物騒な寺の和尚にはなりたくないですな。いかに開山であっても。どなたが開山を」
夢想疎石和尚の高弟である南溟和尚でしたかの」
「ああ、そうそう、確か九州大友の血筋の田原豊前守の次男で出家なさった南溟和尚でしたな」
 この噂、鷹鷲も目西も聞き逃さなかった。あくまで法弟達の噂話である故、真偽のほどは定かではない。しかし、忍びも目西もこの噂はほぼ真実を語っていると考えた。と言うのも今川貞世は宗良親王により打ち負かされた苦い経験のある今川範国の嫡子であるということを、従って当然、信濃宮の動きに常に神経を尖らせている筈であることを二人とも知っていたからである。
 鎮守府将軍北畠顕信の依頼は信濃宮の監視。そしてその方法や場所は一切目西に任されているのである。目西にも忍びにも遠江国の貞永寺は正に信濃宮の監視活動の重要な候補地であると感じられた。しかし目西にとって場所というのは常人とは異なった視点から重要な意味を持つ。起点となる地点から真西にあるか真東にある場所がベストロケーション。そして目西の性質上、斜めであるとか、中途半端な曲線であるようなものを嫌う。従って、目西は鷹鷲から信濃宮監視の話があったはじめから監視する地点は信濃宮の居城から真西、真西が無理であるなら真東、真東が無理であるなら、真南が良いと考えていたのである。実はその忍びから信濃宮は信濃国の大河原に現時点では拠点があると聞いている。少なくとも遠江は信濃の南に位置している。貞永寺が大河原の真南である可能性は不明なるも可能性は否定できない。当時は現在のように正確な地図もなければコンパスもないので正確な位置を測定したり星を頼りにせずに方位を調べたりするのは困難なことであった。しかし目西にはそれが分かる特殊な能力がある。大河原と貞永寺に足を運べば。目西にはそれが分かってしまうのである。また、目西は遠江が京から見て南東にあたることから伊賀神部の真東にあることを期待した。むしろ信濃宮の監視の位置的候補案として大河原の真南で伊賀神部の真東というのが貞永寺の噂話を聞く以前から目西の頭中には有り、貞永寺がその位置候補に合致していそうであることを期待したのだ。
 目西は決意した。遠江の貞永寺は大河原の真南に当たりかつ伊賀の真東に当たることが期待できる場所であるからこそ、そこに移ることを決意したのである。



        





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第二部目次 (甲府・ 東山道編)

    
  

    
  
  
  

  

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