長野で乗り換、特急「しなの」に乗り名古屋へと向かう。「しなの」は名古屋まで三時間はかかる。人によっては、この振り子特急の特殊な揺れで酔う。そのためノートPCを絶対にこの列車では開けないと言う人が多い。しかし紀雄は新幹線よりは揺れるが在来線としてはごく普通であると思っている。着席とともにPCを開いた。今朝は時間がなくてメールを見ていない上、長野駅のWi−Fiスポットにも寄れなかった。しょうがなくクラシックなピッチカードのダイアルアップ接続でサーバーにアクセスした。山中の多い路線である。時々、電波が届かなくて途切れしばしばリダイヤルするのだが。
智からの返事は父紀雄宛ではなく、東宛であった。さほど紀雄はがっかりしたわけではないが、多少なりとも自分宛てであることを期待していたのは事実である。
送信者:
<satoru@mfx.hink.ne.jp> 宛先: ”東 亨”<t-higashi@yhmuseum.pref.yamanashi.jp> 送信日時: 20**年3月20日 21:06 件名: ウバメガシに関して |
山梨県立**博物館 東様 >相輪部:樹種はウバメガシ 伐採地 不明 伐採年 西暦1338年 誤差±10年 本当にウバメガシと言うことであれば、伐採地はある程度限定される。原則、ウバメガシの自生は神奈川三浦半島以西の太平洋沿岸地帯である。沿岸の急斜面などに多いとされる。少なくとも山梨県は県の平均標高から類推しても、700年も昔にウバメガシ伐採されたとは考え難い。ただし、伐採後、移動した可能性は否定できない。以下に県の平均標高の高い県をリスト化した。 1:長野県 1132m、2:山梨県 995m、3:群馬県 764m、4:岐阜県 721m、5:富山県 665m、6:奈良県 570m、7:福島県 540m、8:静岡県 500m、9:栃木県、徳島県 461m 海のない内陸県は埼玉県を除き全てベスト10に入っている。ただし、6位の奈良県には海がないにもかかわらず自生林がある。多分、ウバメガシの純林の多い和歌山県が近くだからと推論できる。尚、以下にウバメガシで有名な地域を記す。 ・和歌山県 特に日高川流域。尚、紀州で有名な備長炭はウバメガシが原料 県の木 一方、檜に関しては、本州、四国、九州に産し、北限は福島県の北緯37゜10´である。南限は下屋久国有林の北緯およそ30゜15´である。特に木曾地方の山間部の中腹から山頂に多い。前述したが伐採後に移動された可能性を含めるべきである。しかし、単純にはウバメガシと檜のオーバーラップ地域は神奈川以西の沿岸地域であると推論するのがふつうであり、完成後に山梨に引っ越したものであろう。 |
紀雄にとってウバメガシとはぴんと来ない樹種であった。しかし、備長炭の原料木がウバメガシというのはおぼろげだが知っていた。この智からのメールの他に三十五通のメールがあった。大学はサーバーのファイアーウォールのバージョンを最近変えたのであろうか。怪しげなメールがこのところ激減している。三十五通全て読み終わり、必要な返信を九通出し終えた頃には塩尻をとうに過ぎ木曾の山中を「しなの」は走っていた。木曽福島の隣の上松、木曾檜で有名なところだ。檜の自生地とウバメガシの自生地の重なり合うポイントが例の百万塔の作成された地である可能性は高い。ただ確かに智がメールで指摘している通り、伐採後の移動は有り得る。特に塔身部の檜の方は伐採年代がウバメガシに較べかなり古い。だとすれば檜が移動したと考えるのが自然ではないだろうか。尚かつ、檜はここ木曾のように標高の高い山中での自生が考えられる。智のメールによれば長野は平均標高日本一で千メートル以上もある。ウバメガシの自生地とはそもそもオーバーラップしないのかもしれない。例えばこの木曾で檜が伐採され、ウバメガシが伐採されるまでの時間的なギャップがあるため、この檜は別の物に使用されていたと考えるべきではなかろうか。その後、この檜はウバメガシの伐採されたところに移動し百万塔に供されたと考えることは不自然ではない。紀雄は得意の脳内シミュレーションで様々な可能性に耽っていた。
* * *
その頃、山梨県立の**博物館では岩井が東から小言を言われていた。
「それじゃ、岩井さん、百万塔の細かい寸法は今まで計測していなかったんだ。やっぱり、レプリカなんだから、実物とどこがどう違うのか調べるのは基本だと思うよ。僕だったらそこからやるけどね」
いやみのこもった言い方だと岩井は思った。さらに東は続けた。
「それじゃ、密度はどうやってだしたの」
「米粒法です」
米粒法は、よく容積を調べるときに古くから行われてきた方法である。例えば、頭蓋骨の能の容積を調べるときなど。そこに米粒などの穀類を充填して、使われた穀類の体積を測ることで計測する。今回の場合10リッターのバケツの中に百万塔を入れておき、その中に米粒を充填していく。使用した米粒の体積を10リッターから引いた値が百万塔の体積となるのだ。
「で結局、どれぐらい本物とこのレプリカではサイズが違っていたの」
「塔身の高さで8mm、相輪の高さで5mm、底部直径で12mmほどいずれもこのレプリカの方が大きかったです」
岩井としては、元々寸法を今の段階で計るつもりであった。当初の優先事項は詳細寸法を測定することではなく塔身と相輪の分離だったのだから。ただ、この測定の結果、岩井が鎌倉の古美術商でこれを発見したときに感じた違和感の原因が明確になった。それは大きさだったのだ。
岩井は東よりも智の方がはるかにスピーディーに問題解決できるのではと感じた。今度から、東を通さずに智にメールを直接出してみようと思った。
名古屋は上越に較べれば暖かい。ヒートアイランドの影響もあろうし、海風を遮る可能性のある高層ビルが立つからかもしれない。しかし、駅前にこんなに超高層ビルが並んだのは紀雄が上越に移って以降のことである。酢造メーカーとの打ち合わせはこの超高層ビルの中の会議室で行われた。酢のボトルに電子的透かし(ステガノグラフ)を入れる計画に関しての会議であった。しかもそれはボトル本体に刻印したホログラム画像の中に。紀雄の専門は電子透かしそのものである。会議そのものはつつがなく終了した。会議後、酢造メーカーの担当部長との談笑で、実は紀雄は知らなかったのだが、このメーカーの本社はこの名古屋の超高層ビルにあるのではなく、知多半島の中央部より南の半田と言うところにあるのだそうだ。伊勢湾にあるセントレア(中部国際空港)からはタクシーで二十分ぐらいだが、三河湾側にあるのだそうだ。部長曰く次回の会議は是非とも彼らの本社でやりましょうとのこと。紀雄は次回などあるとは想像もしていなかったことなのだが。
新幹線で揺られながら紀雄はぼっと智と芳子の車旅のことを考えていた。それも名古屋京都間ではつかの間であった。その日の内に京都の四条河原町のホテルに入った。部屋に着くなり無線LAN接続しインターネットで知多半島や半田を検索して
みた。
「次回の会議を半田の本社で行いましょう」この部長の発言に紀雄の神経の大半が集中してしまったのだ。それなら少しは知多半島や半田を知っておいたほうが良いと思ったので。いかにも紀雄的な発想に基づく行動である。智との類似性が認められる。ホームページからホームページへリンクを伝って小一時間、そろそろ疲れた頃、突然ウバメガシと言う単語が目に入った。
知多半島の先端は師崎。その師崎にある幡豆神社の社叢は国指定天然記念物のウバメガシの群生と書かれている。
紀雄は、前に着た智からのメールにはこの地名の記載がなかったのではと思い智のメールを確認してみた。やはり愛知県の地名は智のリストからは漏れていた。紀雄は微笑んだ。緻密さに固執する智でも、ネット検索が多分得意な智でも、発見できなかった地名を発見したのである。これは智にメールで知らせてやろうと思った。鬼の首を取ったようなつもりなのだ。メールには芳子との旅中の安全も付け加えておいた。