同窓会から二週間。未だ上越も東京も寒かった。智の受験した大学の合格発表の日。紀雄は所属している学会の研究例会に参加する名目で東京に来た。大学も春休みが始まり講義を延期や中止する必要もなく東京に出てくることができる。
 今日は日帰りの予定。午後一からの研究例会も途中退席しすぐに東京メトロにのり合格発表のある大学の会場に来た。もし不合格であれば智にどう伝えたものか。智はヒステリーを起こすかもしれない。智の特殊な性格から考えて彼は不合格ということを全く想定していないから。不合格の意味合いですら理解していないかもしれない。逆にもし合格していたら。どう彼は生活していくのだろうか。大学のメインキャンパスは都心の合格発表会場とは異なり小田急線で20分ほどの郊外にある。いかに郊外にあろうが彼が一人で生活するのは無理。だとすれば、芳子とともに暮らすのか。その場合自分は上越に単身で残ることになる。単身赴任ではないが。何故ならば本拠地が上越なのだから。色々な事が頭の中をめぐり、それぞれの場合をシミュレーションしては困難に直面する。思考が常に否定的に向かう。紀雄は自分自身そういう思考になることに気が付いており、時々、自分の脳内物質であるセロトニンの量に問題があるのではと考えることがあった。先日の同窓会でせっかく一つ肩から重荷の一部を外したのに。
 理学部合格者の発表掲示板の前。吐く息は白い。歓喜と無念が半ばする毎年毎年繰り返されるこの合格発表の光景。合格した受験番号を指差しながら携帯電話やデジカメで写真をとる合格者とその友達、あるいは家族。手袋のまま顔を覆う如何にも不合格の女子高生。これほどネットワーク環境が成熟した社会でありながら、受験生やその家族はどうして合格通知をまたずにこの場に来るのか。
 智の受験番号である3645を紀雄は探した。目で近傍の数字を見つけた。その番号から、どきどきしながら目線を下に移す。3638、3639、3642、3645、3649.目線を3645にあてる。30年以上も前の自分の合格発表と現実が交錯する。あった。目当ての数字があった。紀雄は心底嬉しかった。携帯電話で直ぐに芳子と智に知らせなくては。先ほどまで案じていた今後の生活のことなど無関係に嬉しい。自分の合格の時よりも嬉しい。紀雄は目に涙が浮かぶのを感じた。別に自分の息子が自閉症であるから特別に嬉しいとか、感慨ひとしおとかそういのではない。単純に嬉しかった。

電話口での芳子は紀雄よりはるかに冷静に合格を受け止めていた。智も特に喜びを表現するような言葉は何一つ言わなかった。もともと彼は物事が思い通りに行かないときに癇癪を起こす以外はほとんど感情を表現しない。面白いのか、嬉しいのか、悲しいのか、辛いのか。少なくとも外見上はほとんど分からない。家に帰ってお祝いをするわけでもない。何故ならば、普段と極端に異なる雰囲気やメニューにすると智は食べることを拒否するから。これから、学生になり社会人になりアルコールを飲む機会があるかもしれない。智がアルコールで酔うとどのようになるのであろうか。ふと紀雄は今晩、普段と変わらぬ食事の際の御茶に焼酎でも少し混ぜてみてはと思いついた。智も少しずつアルコールに慣らさなくては。
「さっきから、久しぶりに雪が降ってるから。直江津のほうがいいかも」
電話で芳子が言っていた。直江津は上越市の北側に辺り日本海沿いの港街。一方、南の高田は妙高山に連なる山すその城下町。同じ市内でも数キロメートルの差で海側と山側とでの積雪量は雲泥の差となる。直江津にはさほど雪が積もらない。家はちょうど直江津と高田の中間に位置する。上杉謙信で有名な春日山城址が比較的近くにあるのだが、それは信越線をはさんで反対側である。気象や時間によって直江津に迎えに来てもらうか高田に来てもらうか適宜決める必要があるのだ。
 それからさらに、芳子は電話で
「合格のお祝いだけど、智が一番欲しがっていたあれを買ってあげたら」
と言った。あれとはパソコンのことである。学校の話しでも智が一番輝いているのはパソコンに向かっているときであると言う。実は智が小学校の頃、紀雄の自宅のパソコンを智に解放したことがあった。インターネットを含めて。しばらく経つと智は四六時中自宅のパソコンの前にいて学校にも行かずに、パソコンの他に何もしなくなってしまった。それ以来、家では智にパソコンはご法度としてしまったのである。中学校の頃も放課後ひとり黙々とパソコンで何かをしていて帰りが遅くなり学校の教師から度々電話があった。高校生になると紀雄の大学の研究室にあるパソコンを使いに来ることさえあった。都度、紀雄は追い返したのだが。ただ、実は同じ大学ではあるが教育学部の付属高校と紀雄のいるキャンパスは別の場所にあるため、智が放課後に紀雄のキャンパスまで一人で来られるというのは、紀雄や芳子としてみれば嬉しいはずのこと、また智にとっては一大冒険であったに違いない。
 芳子は合格のお祝いにと言ったが紀雄としては別の観点から智にパソコンを贈ろうと思っていた。見ず知らずの人前でのコミュニケーションが不得手な智にとって、これからの学生生活をしていく上で、メールの使えるノート型パソコンは強力なツールになりうる。そう思い、早速新幹線の乗車時間までに有楽町にある家電量販店に行きノート型のパソコンを購入した。 


 紀雄の帰宅までに、自宅の回りは一面水気の多い重い雪で覆われていた。夕食の時、本当に智の御茶に焼酎を混ぜてみた。智は一口のみすぐに口に含んだその御茶を湯のみに戻し,二度とそれを飲むことはしなかった。紀雄の目論見は大いに外れた。アルコールが飲めない社会人は多数いるのだ。食後、智にノート型パソコンを与えた。もちろん智からはお礼の言葉などない。ただ、その表情は明らかに嬉しげであると紀雄も芳子も思った。智は案の定、自分の部屋にパソコンを持って篭ってしまった。やれやれである。
 食後、紀雄は自宅のパソコンで智のためにプロバイダーから家族用のメールアカウントを取得した。即日で使用可能である。その取得した結果をプリンターで印刷し、その紙を智に渡した。後のインストールや設定は多分、ほっておいても智自身がやるであろう。それから紀雄は自分のパソコンのアドレス帳に智のメールアドレス
(satoru@mfx.hink.ne.jp)を加えた。加え終えたちょうどそのとき、新着メッセージの表示が出た。直ぐに紀雄はそのメールを見た。東からである。同窓会で話したあの東からである。
<メールアドレスは架空です。メールを出さないようにお願いいたします。>

送信者:   ”東 亨”  <t-higashi@yhmuseum.pref.yamanashi.jp>
宛先:    <n-suzaka@joetsu***.ac.jp>  
送信日時:  20**年3月4日 22:27
添付:    百万塔写真XX03031.jpg
件名:       教えて

須坂紀雄教授

御世話になっております。山梨県立**博物館の東です。

同窓会のときはどうも有難うございました。ところで、あの時お話した百万塔のことですが、実は相輪(蓋)部分と塔身(本体)部分が非破壊的にどうしても分離できません。要するに蓋が開かないと言うことです。計算した体積と重量測定の結果から、密度的にはどう考えても塔身は中空のはずです。また添付の写真をご覧いただければ分かると思いますが、相輪部分と塔身部分では木目や樹種が明らかに異なっています。私としては、必ず相輪部分と塔身部分は分離できる考え、当館で可能な物理的な方法や化学処理、はたまたねじ込み式の可能性等も考え、色々なことをトライアルしました。しかし残念ながら未だに開けられておりません。そこで、先生であれば、大学内でもしかしたらこの手のものに知見をお持ちのお知りあいの先生がいらっしゃるのではないかと思いまして、メールいたしました。ご多用中、御手数をおかけして申し訳ございませんがもし心当たりございましたらご連絡いただけますようお願い申し上げます。

                                     以上


 宛先は紀雄の大学のメールアドレスになっていた。 CC:に紀雄のプライベート用のメールアドレスと、例の岩井という女性だと思われるアドレスが入っていた。そう言えば、東にプライベートのアドレスも教えていた。果たして学内にこの手のものに知見のある人物がいるであろうか。また、悩ましい問題が自分に降りかかってきたような気がした。紀雄は気を取り直して、智へテストメールでもだそうと考えた。そこで、この東からのメールを、新たにアドレス帳に登録した智に向けて転送してみた。



       





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