二見貞友達が伊勢から戻って来た頃には、秋も随分深まりすでに寒さを感じ頃となった。密書を送り出した今、顕信としては、待つ以外に何もすることが無かった。することが無いと、色々なことを考え始める。特にこれから起こるであろうことを。もし無事に吉野に帰還できたら。どのような事態が生ずるのであろう。もし帰還できるのであれば、いっそ自分の異母兄弟である目西をつれて帰ろうか。二見貞友も南朝方の役に立てるのでは、等々。 無事に吉野に帰還できたら、自分と今、生活を共にしている義良親王はどうなるのであろう。新田左中将義貞公が自害なされる少し前に、噂では義良親王の同母兄である、皇太子恒良(つねよし)親王は、足利冶部卿高氏により毒を盛られたことを知りつつ、それが運命と諦め、その毒を服して死なれたらしい。皇太子が死んでしまっている以上、次の皇太子を早く決めなくてはならないはずである。ただ、恒良親王の後、だれを皇太子にするのかやや状況は込み入っていると顕信は思った。
おんべ鯛で伊勢神宮に行っていた二見に、阿野三位局廉子の子で恒良親王と同じく義良親王の同母兄である成良(なりよし)親王(恒良親王の弟)の情報があれば聞いてきて欲しいと頼んでいたのだが、案の定、何の情報もなかった。成良親王は恒良親王とともに足利冶部卿高氏に毒殺との話もあったのだが、その後、顕信がこの東国出征の直前に、どうやら生きているという噂が広がったのだが。もし成良親王が生きておられて無事に吉野に戻られていれば、多分、この親王が皇太子となる可能性が高い。ただ顕信の知る限りこの成良親王は極めて不憫な子供である。
この親王、建武の新政開始と伴に鎌倉入りをし、建武二年(1335)の中先代の乱の時、足利左馬頭直義とともに鎌倉を脱出し親王は京都に戻った。その後、足利冶部卿高氏の征夷大将軍就任阻止を目的にこの幼い親王が征夷大将軍に任ぜられた。翌延元元年(1336)十一月には後醍醐帝と光厳院間の和睦により、鎌倉後期以来の両統(持明院統・大覚寺統)迭立原則に則り成良親王は光明天皇の皇太子となった。しかしそれもつかの間、翌十二月には、和睦が破綻したため成良親王の皇太子も廃された。自分に全く無関係に運命に翻弄され続ける。無論、弟である義良親王も自分も自由意思とかけ離れた運命に翻弄されているのだが。
成良親王が仮に今、生きて何処に居られるとしたら。顕信は思いを巡らせるのが好きなのかもしれない。鎌倉入りをして以来、この親王はずっと北朝方の武士の中で成長してきている。だとすれば、おのずと思想も北朝系に近いものがあるのでは。生きていても自らの意思で吉野には戻られないのかもしれない。中先代の乱のおりに成良親王は足利左馬頭直義とともに鎌倉を脱出している。
顕信は頭の中で本筋から脱線し中先代の乱のことを考え始めた。そしてこの乱において兵部卿護良(もりよし)親王つまり大塔宮が処刑された時より、帝の親政の崩壊が加速したという自説が再び込み上げてくるのを感じた。この乱、北条一族の残党である相模次郎(北条)時行が鎌倉奪還を目指して信州諏訪から南下、足利左馬頭直義がもっと巧妙な戦術で鎌倉を防衛していれば、あるいはこの乱に全く無関係であった土牢の大塔宮が意味も無く処刑されることはなかったのかもしれない。
顕信が知る限り、鎌倉街道における防衛線の第一は多摩川の渡渉点である府中分倍河原、関戸間(現在の分倍河原、関戸橋付近)、次の防衛線は井出の澤付近(現在の町田市菅原神社付近)。鎌倉街道上道(かみのみち)にある井手の澤の防衛線を突破されてしまうと、相州と武州の境界線を流れる境川(下流部は片瀬川)に沿いつつ部隊は容易に南下できるはずである。残る防衛線といえばいずれも鎌倉街道上道を境川伝いに下流に下った、瀬谷(現在の横浜市瀬谷区)、飯田(現在の横浜市泉区)そして最後は村岡(現在の藤沢市)である。しかし、これらの脆弱な防衛線では勢いづいた敵を止めることは不可能である。
当時の顕信のごとき貴族武将にとって鎌倉街道、中でも主要道である上道、早の道、東海道と東山道の宿駅や防衛線は、暗記必須事項であった。少なくとも顕信は、鎌倉極楽寺の僧明空が信州善行寺にまでの旅程を記した宴曲抄「善行寺修行」を暗記することで覚えた。例えば、鎌倉由比ガ浜から井出の澤を経て関戸までは、
「吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし井出の沢辺かとよ、小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる」<宴曲抄 善行寺修行>
という具合に。
無勢とはいえ井手の澤防衛線において足利左馬頭直義は大敗を喫してしまった。結果、鎌倉離脱を決意せざるを得なくなってしまった。その際、馬頭直義は相模次郎時行そのものよりも影響力の大きい大塔宮のことを恐れ処刑を命じた。命ぜられたのは、淵辺(ふちべ)伊賀守。大塔宮の最後は壮絶なものであったと聞く。淵辺の太刀を噛み切り、斬首されてもなお、くい切った太刀の一部が御口の中にあった。淵辺はこれを見て、中国にある干将莫耶(かんしょうばくや)の伝説を思い出し、御首を左馬頭に近づけまいとて、近くの藪に大塔宮の御首を捨ててしまった。干将莫耶(かんしょうばくや)伝説とは、刀鍛冶の干将とその妻莫耶の子の眉間尺(みけんじゃく)が父干将の仇的である楚王に復讐を遂げる話。眉間尺は父の作った名剣を食い切りこれを口に含んで首を友人に切りおとさせて死んだ。その友人が楚王にその首を差し出し、楚王は、獄門に三ヶ月間首を掛けたが爛れることがないため、その首を鼎(かなえ)に入れて七日七晩煮た。ころあいを見て楚王が鼎を覗き見た瞬間、眉間尺は口中の剣を楚王に吹き付け首を落とし、最後に楚王の首をかみ破り仇を遂げた。<太平記現代語訳>
淵辺は御首を左馬頭の御前に出したとき大塔宮が眉間尺のように御口中にある剣を吹き付けるのを恐れでもしたのか。宮の御首は藪に捨てられてしまった。顕信は淵辺の卑劣さを憎んだ。
顕信は本筋に戻り成良親王の可能性を除き次の皇太子は誰かを考えた。すでに死んでしまっている親王、出家した法親王、女性である内親王は別として。最年長での可能性としては義良親王の十七歳年上である一品中務卿(いっぴんなかつかさきょう)である宗良親王。ただ今回、伊勢大湊から一緒に東国出征をし、現時点では行方不明である。また、次の有力候補と思われる皇子としては、義良親王の一歳年下の懐良(かねよし)親王を挙げる事ができる。この親王の母親は二条為道女である。同母兄には世良(せよし)親王がいる。顕信の父、北畠親房は世良親王の養育係りであり、世良親王が他界するまでそれは続いた。この事実からも、帝が最も後継者として期待をしていたのは、実は世良親王であったと言われている。その同母弟である懐良親王は有力候補と言わざるを得ない。
では義良親王は。帝の廉子に対する愛情があれば、この女を母とする親王が優先されるはずである。妃の位や本人の資質よりも帝の思いが優先されるはずであれば。もし、成良親王が吉野に帰還できずにいるとすれば、義良親王も皇太子の最有力候補と言えるのではなかろうか。もし義良親王が皇太子になり、さらには受禅し帝にでもなったら、顕信自身はどのような立場になるのか想像しようとしたが、顕信の心の中で何某かの拒絶反応が生じた。ただ、もし万が一にも現主上(後醍醐帝)が崩御され、かつ義良親王が帝位についたとしたら、他の兄弟親王達は謀反をおこさず新帝に忠誠を尽くしてくれるのであろうか。後醍醐帝という稀代のカリスマを喪失した南朝は、何が求心力になるのであろう。だがそれは北朝とて似たり寄ったりで、足利冶部卿高氏を失えば求心力を失うであろう。
顕信は頭の中でより露骨かつ端的な言葉で問題点を集約してみた。義良親王の帝位への邪魔者は、年上である一品中務卿宗良親王と年下である懐良親王の二人であり、また忠誠への問題点はやはり遥かに年上である宗良親王側と目される。そして究極の宿敵は高氏、直義の足利兄弟である。結局、これらの人間の間で上手く立ち振る舞っていかねば義良親王は、ひいては自分の生きていく道がないことになるのである。
目西は何か強い不足を感じていた。何か忘れ物をしたような気持ち。多分それは、不完全な形で密書を送り出した気がするからなのであろう。
目西は伊勢が浜の岩の上に座り西を見つめながら考えていた。もし密書が、伊賀神戸の忍びに届く前に敵方の手に渡ったらどうなるのであろう。確かに、百万塔は簡単には開封できない。例え開封できたとしても文書は暗号化されているし、篠島という言葉も隠されているのだから。敵方に内容を悟られることはありえない筈である。だから安心できるはず。これが秘匿文書通信の基本なのだから。しかし何かが不足していると思える。
目西の不安は人に対するものではなく、まして顕信が感じているような先々の運命に対するものでもない。ただ単に自分の作成した通信方法が完璧ではなく、弱点があるのではないかとのシステムに対するあくまで客観的な不安であった。
目西は、伊勢湾に沈ゆく太陽を眺め、客観的に不安な気分を何とか押さえ、館に戻
った。