送信者:   岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp>
宛先:     <satoru@mfx.hink.ne.jp>
送信日時:   20**321 21:01
件名:     百万塔のサイズ

TO:智様、須坂教授殿
cc:東館長殿

お世話になっております。山梨県立**博物館の岩井と申します。初めてメールいたします。今後、宜しくお願いいたします。((__“))

さて、私ども博物館が手に入れた百万塔が実は本物の百万塔とサイズが微妙に異なっていたことをご報告申し上げあるためにメールいたしました。塔身の高さで8mm、相輪の高さで5mm、底部の直径で12mmほどいずれもこの博物館の骨董レプリカ品の方が大きいのです。(=‘□’=) この事実から、少なくとも製作者は正確な図面を持っていなかったことが推論されます。また、実物の百万塔を前にして造ったとも考えられないと思われます。なぜなら微妙なサイズ差は別としてほぼ正確な複製であり、だとすれば、もし本物を眼前に作成していれば、全体の完成度から言ってサイズも正確に模倣したのではと考えられるからです。私の推論では相当実物に見慣れた人物が図面も実物も見ずに作成したというものです。ただ、百万塔の実物に見慣れている人が記憶だけをたよりに作成したとして、逆にここまで正確に作成できるかどうかは疑問が残ります。また、百万塔の実物は、このレプリカが作成された時代には、元々十万基づつ奉納された十大寺以外にもいくつか散逸していたことが考えられますが、基本的には元々奉納を受けた大寺院にのみ存在したと思っております。従いまして作成者はこれらの寺の関係者であることが類推されます。(@@“) さらに、新たな事実として、今まで気が付かなかったのが不思議なのですが、蓋である相輪部を振ると、かすかではありますが、しゃかしゃかと音がします。これはまるで相輪部が中空で、その中に砂でも入っているかのようです。これから解析をしていく予定です。(^○^)

以上

 京都から東京に移動し、元いたメーカーのエンジニアとの打ち合わせをすませた後、府中のホテルでメールを見た紀雄は驚いた。岩井という例の女性からの直接のメールである。今までは東からの転送信でしか彼女のメールを見たことがないのだから。しかも初めの宛先アドレスは智である。いったい彼女はどうしたというのであろう。何か智に直接伝える理由でもあったのだろうか。明日、帰りにがけに博物館に立ち寄る約束を東としている。多分、岩井さんの顔を直接見ることになるであろう。果たして、その時に直接メールを出した理由を聞いてもいいものなのか。未だ智から知多のウバメガシに関しての返信は着ていなかった。不慣れな旅路、パソコンを持ってこなかったにちがない。四時半頃、芳子の携帯から無事ホテルに到着との連絡があった。意外なことだが、上越から東京までのロングドライブとアパート探しの後にもかかわらず智はすこぶる元気らしい。大学周辺で2LDKの部屋を見つけたとの報もあった。明日、紀雄と落ち合ってから正式に敷金礼金の支払い手続きをしたいとのことであった。

* * *

 随分暖かい朝であった。府中は上越よりかなり春が早い。桜のつぼみもかなり膨らんでいる。ただ都心や新宿に較べると府中はそれでも寒い方だ。府中に住んでいた頃、天気予報での都心の気温と府中の気温ではいつも二度ほど府中の方が低かった。芳子と智が宿泊している新宿西口の超高層ビル街にあるホテルに迎えに行く途中、京王線から見えた桜は既に少しではあるが開花していた。
 智を東京の私鉄に慣らすつもりで、車を新宿のホテルに置き去りにしたまま、親子三人で久しぶりに電車に乗った。そう言えば昔から芳子に手を引かれることだけに関しては、他人との身体接触を嫌う智にとって唯一例外であった。ただ、今この都会の雑踏で芳子とて、智の手を引くのは気恥かしいであろう。芳子が先頭で直ぐ後ろを智がそしてそのまた後ろを紀雄がついて歩いた。新宿から小田急線で多摩川を越えて二つ目の駅。向ヶ丘遊園である。ここなら急行で新宿にはすぐに出られる。また智も徒歩だけでキャンパスまで通うことができる。予定では四月からここに当面の間ではあるが、智と芳子が一緒に住むことになる。住所は川崎市多摩区枡形になる。紀雄にも芳子にも全く不案内な場所であるのだが、多摩川が比較的近くにあり、また府中からそう遠くもない。さらに、南武線で府中からここの隣の駅である登戸までは十分程。そういうわけで紀雄としては土地感がなくもなかった。関東の東部や北部に較べれば、紀雄や神奈川出身の芳子には違和感のない土地であった。
 敷金礼金を支払った時、ここでの生活は上越に較べかなり金がかかる気がした。紀雄は自分の給料で智の学費と生活費の全て賄えられるのか疑問を感じた。多分、自分の給料のみでは無理で、紀雄の父の遺産に手を着けることになる。それが故に金に困ることはないであろう。また、それでプライドがどうのこうのと言うこともないのだが、何かが紀雄の心に引っかかっていて安心できなかった。

 手続きを終えて新宿に戻ったが未だ午前十時であった。
「智、百万塔の本物とレプリカの実物見てみたくないか」
 紀雄は智に聞いた。智は単に頷いた。
「なあにそれ。御父さんと智ちゃんだけの秘密かしら」
 芳子が微笑みながら質問した。再び智は単に頷いた。
 車は引き続きホテルの駐車場に止めたまま、小石川にある印刷会社の博物館に向かった。新宿から総武線で水道橋に向かう電車の中で紀雄が芳子に事情を説明し、まれに樹種判定や年代推定など技術的な説明と補足を智がした。小石川の印刷博物館と山梨県の歴史博物館をはしごしようとする以上やや急ぐ必要があり、紀雄は家族を急がせた。水道橋から大曲と言われる界隈を過ぎると超モダンな印刷会社のガラス張り高層ビルが見える。そこの地下が印刷博物館である。時間がないのでチケットを購入し、案内パンフレットを見て目的である、百万塔だけを目指した。館内は非常に空いていて他にほとんど客はいなかった。
 これが実物か。正直なところ紀雄は本物を見た感慨よりもむしろ「なんだこんなものか」と感じた。また想像よりも随分小さいと思った。一方、智は食い入るように見つめている。智は一度じっくりと見たものは映像情報そのものとして彼の脳に記憶する。普通の人間であれば情報を整理した上である種のコード的記憶するので、もとの映像情報は不正確化してしまう。
「智、もういいかい」と紀雄は声をかけた。が、智はなかなか首を縦に振らない。側にいる学芸員も怪訝そうな顔をしている。それも当然である。この百万塔だけをさっきから約十分も見つめているのだから。芳子と紀雄は途中から智を動かすことをあきらめ周りの展示品を眺めていた。
 夫婦でグーテンベルグの42行聖書の説明を見ていたとき、智がふいに百万塔を離れ展示室を出て行った。あわてて、芳子と紀雄も展示室を出て、博物館を後にした。

* * *

新宿から首都高に入りそのまま中央高速にのり、八王子、小仏トンネルを越え下りの談合坂サービスエリアまで走った。どこも特には混んでいなかった。サービスエリアで昼食を取り終えたときには14:30であった。談合坂から笹子トンネルを抜けると、遠方がやや黄色に霞がかった甲府盆地が一望できた。
「花粉かしらね。昔だったら今ごろ大変よね」霞を見て芳子が言った。周りの山々には杉が多くある。かつて芳子も紀雄も症状の重い花粉症に悩まされていたのだが四十代も半ばを回った頃からさほど激しい症状が出なくなっている。
「あと、一ヶ月もすればここはピンクに染まって綺麗なのよね」
ぶどう郷の勝沼を過ぎ、桃源郷と言われる一の宮、御坂を過ぎ、中道のインターで高速を降りた。山梨県立の**博物館はインターを降りてから直ぐの所にある。

 ナウマン象の像のある前庭から博物館の入り口に向かう。中に入ると紺のスーツ姿の東とグレーのワンピースを着た痩せ型の女性が須坂家一行を出迎えた。もちろんワンピースの女性が岩井である。何故、こんな正装をしているのであろう。まさか須坂家に敬意を表したのか。
「はじめまして、岩井と申します」岩井は紀雄とだけ名刺を交換した。メールの文章からはもっとくだけた感じの女性を想像していたのだが、神経質には見えないまでも服装のせいか、几帳面そうな印象を紀雄は持った。
「私が須坂です。これが妻の芳子、これが息子の智です」
それぞれ、挨拶をした。
「普段からスーツ姿なのかい」紀雄が東に尋ねた。
「いえ、普段はカジュアルが多いです」
「今日はパーティでもあるのかい」
「いいえ」
須坂家に敬意を表したのであろう。

 岩井の解説で小一時間ほど展示品を見て回った。その後、ペットボトルの御茶が五本準備されている十二客椅子のある会議室に通された。
「実は午前中、東京の小石川にある印刷博物館というところで、百万塔の実物を見てきました」と紀雄は言った。と突然
「A4の紙とペンを貸してください」
と智が言った。初対面の人間に対して智が口を訊くなどかつてないことである。紙とペンが準備されると智はおもむろに図形を描き始めた。フリーハンドである。そして直ぐに全員がそれは百万塔の横から見た断面図であることが分かった。
「今朝ほど見た百万塔の記憶を基にできるだけ原寸大で正確に描いたつもりです。サイズを測ってみてください」
皆、その細部まで正確に再現された図に驚かされていた。東は会議室を出て定規を取りにいった。しばらくして、東が定規と件(くだん)の百万塔レプリカを持って再び会議室に入ってきた。そしてその定規で岩井が図形の高さと相輪部の幅を計って
みた。
「智さんが描いた百万塔の塔の高さは21.6cm、それから底部直径は11.0cmです。えーっと本物のサイズはと」
岩井は手にしていた自分のノートを開きサイズを確認した。
「すっ、すごい。塔の高さで4mm、底部の直径で3mmしか実物と違っていない」岩井は驚嘆した。もちろん東も驚いている。
「岩井さんからのメールに、“百万塔の実物に見慣れている人が記憶だけをたよりに作成したとして、逆にここまで正確に作成できるかどうかは疑問が残ります”とありました。私であれば、私のような人間であれば作製可能であることが実証できました。つまり岩井さんの“実物に見慣れた人物が図面も実物も見ずに作成したという”推論は否定できない上、かなりの確度で正しいと言えます」
 智の言葉を聞いて紀雄はやっと智の意図が理解できたのである。博物館での長時間の実物観察からフリーハンドでの描きまで、全ての行動が岩井のメールの疑問点を解消するために計画的になされたものであったことが。

 その後、智は再び普段の智に戻ったのか、岩井にも、東にも一言も喋りかけなかった。代わり紀雄が東や岩井との会話を続けた。なかでも会話の中心は、百万塔の内部にあった紙片に関することであった。東が、書かれた文章が実は万葉仮名であることを自分が発見したと自慢げに語った。そしてそれは和歌になっていることも自分が見出したと、発見の状況説明を含めこと細かに解説したのである。東は説明し終えると、文章をメールで先生に送信するようにと岩井に命じた。
 それから、相輪部でする音に関しても実際、全員で確かめてみた。中に空洞がありそこに砂が入っているよな音である。そしてそれに関してもいくつかの議論があった。東の白蟻説は大半の者が反対した。白蟻が空洞と木屑を作り、それで音がするというのだが。はたして木屑で音が生ずるであろうか。

 別れ際、岩井に紀雄は尋ねてみた。
「智って、変わっているでしょう。智宛でメールを直接だされていたので少々驚きました」
「直接の出したのは失礼でしたでしょうか」
「とんでもありません。智も嬉しかったのではと思います」
「智さんて、ものすごーく頭がいいのですね」
「それはどうか」
紀雄はまたひとつ智に関する荷をおろしたと感じた。

高田の家には21:30頃着いた。


        





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