密書を送り出してから既に二ヶ月が過ぎた早朝である。吐く息が白く見える。波しぶきが体に着くと寒気を覚える。通常、人は日の出を見ると感動を覚えるのだが。日の出を見つめている以上、その人は東側を向いている。しかし目西は原則、西しか見つめない。だから日の出を拝むことは決してないはずである。ところが、今、目西は日の出を見つめている。それも真西を背にして、真東を望み考えている。
伊賀神戸の忍びに届く前に敵方が密書を手に入れたらどうなるのであろう。確かに文書は暗号化されているし、篠島という言葉も隠されている。だから敵方は内容を解さないはずである。しかし仮に内容を解せなくとも偽の伝言を記した文書を入れ、故意に当方側に戻すかもしれない。それも当方側が偽の文書にすり返られたことに気がつかないように。それは充分あり得る。目西の論理は進む。夜寝ている間に敵の忍びが百万塔を密かに奪う。敵方の忍びも実は伊賀の出身者である可能性は無きにしもあらず。仮に伊賀ものであれば、百万塔の開け方は心得ているはず。中から密書を抜き出す。暗号を解読する必要は全くない。文書の内容など端から無関係で、偽の伝言を記した文書を百万塔に忍ばせ蓋をする。そして、翌朝当方側は中味がすり変えられたことも知らず百万塔を運ぶ。結果、偽伝言は吉野にまで伝わる。誰も中味が贋物であることに気がつきもしない。さらに盗んだ暗号文は、後で解読の専門家にでも渡せば
良い。
目西はこのシステムの弱点に気が付いた。敵方の侵襲があった事実を残せないこと。いずれこの不備は直さねばならないと目西は思考した。彼としては珍しいことだが東の果てを見つめていた。まるでそこに問題解決の鍵でもあるかのように。
* * *
果たして現物の百万塔の行方は。おんべ鯛で伊勢神宮までは神職二見貞友が抱きしめて輸送した。そして二見は、この百万塔を南朝方あるいは吉野に届けてくれとは言わず、単に千賀地忍宗家に届けてくれるよう伝言し、権禰宜で神宮禰宜度会家行の息子である人物に渡した。もちろん彼はここで決して篠島に義良親王が居る事は言わなかった。さらに、百万塔が南朝方の物であるとも北朝方の物であるとも語らなかったし、百万塔の中に密書があることさえ伝えなかった。これらの行動はリスク回避からは妥当なものである。しかし、当然、詳細や諸注意事項を伝達していないため、権禰宜あるいはその後の運搬に携わる全ての人物は北朝系のルートで千賀地忍宗家に届けようとするかもしれない。そのような事態になっても全く問題はないと二見は考えていた。それほどまでに二見は北畠顕信から聞かされていた折句での密書や百万塔の鍵機構あるいは島名の秘匿方法を信頼していたのである。二見を信頼させた顕信自身も目西の作成した百万塔と島名秘匿法に感心しまた強く信頼していたからに他ならない。ただ、現実的には伊勢度会郡をはじめこの一帯は南朝方であるし、また伊賀の千賀地忍家も中立からやや南朝よりで、まして北畠親房には恩義があった。よってそう簡単に北朝方の手に渡ることはないと言えるのだが。
逆に二見がおかした誤りは、この百万塔を早急に届けて欲しいことまでも伝えなかった点である。そのためなのか、受け取った権禰宜は速やかな対応を取らなかった。百万塔を託されたその権禰宜の周囲には直接伊賀に所要のある者はいなかった。また百万塔は仏塔の類であり神道系の御物ではないため扱いもぞんざいとなった。
何日もの後、彼は深くは考えずに、内宮にいた熊野修験者に百万塔を伊賀千賀地家に届けてくれるようにと渡してしまった。というのも聞けばこの修験者、名を宮野坊忠倫(みやのぼうちゅうりん)と言い、京都洛東の聖護院に自分の僧籍があると言う。実は熊野修験教団の総本山は聖護院で、後のことではあるが聖護院門跡は南朝系の宮がなる。(二代南朝の宮が続いた後、北朝の宮になったが)その一言で権禰宜はこの男を信頼してしまったのだ。さらにこの修験者、いかにも足達者に見え伊賀への寄り道などわけもなく、ここから一日、二日でことを済ませられるように見えた。その上、権禰宜の知識範囲では忍びはよく山伏に扮するということになっており、逆に山伏であれば忍びとの接触があるに違いないと思い込んでいたのである。故に、熊野修験者を見かけた瞬間これ幸い最適任者が現れたと思った。ところが、である。この宮野坊忠倫、伊賀には向かわずそのまま四日かけて熊野の新宮まで戻ってしまった。というのも至極当然で彼は伊賀に行ったこともなければ縁もゆかりもない。さらに権禰宜と同様、修験者の中には忍びの里に詳しい奴もいるはずであると考え熊野に戻りそこで適任者を探そうと思った。いざ戻ると山伏の仲間内でも忍びの里に精通している者など見つからなかった。一度はいっそのこと百万塔を捨ててしまおうかとも思ったのだが、そこは修験者である。神官とは異なり神仏混交、仏塔の如き法力の宿る物をみだりに捨ててはならずと思い直し、頼まれた任務をまっとうしようと考え直した。が、やはり彼自身で伊賀まで出向く発想にはどうしても至らず、次に大峰に行くときにでも持参いたし大峰において、伊賀に用向きのある人物を探すこととした。だが大峰行は当面の間なかった。ここで百万塔は長らく滞留するのではと思われた。
が、不幸中の幸い、修験者自身にも不意ではあったのだが、聖護院から、さる法親王の灌頂儀式を執り行う知らせが新宮別当家経由で入り、儀式の一連を見届けるようにと宮野坊忠倫への依頼があった。そこで早速、彼は京都聖護院に向かうこととなった。あるいは途中で運良く伊賀へ行く旅人なりと会えるかも知れないと考え、百万塔も所持した。
熊野新宮から本宮に向かい、そこから大峰山の奥駆けを経由し大峰山寺に達した。ここでも当然、伊賀に精通した人物を探したが、結局見当たらなかった。そして山を、後醍醐天皇の御座所のある吉野に下った。新宮を出発してから七日目にしてついに百万塔は最終目的地である吉野に到着したわけだが、もちろん、忠倫はここが百万塔の最終目的地であることなどみじんも知らない。九日目には今度は、百万塔密書運搬器の発想の原点とも言うべき奈良の元興寺に達した。なんとも皮肉な運命。この奈良から西へ一日の旅程で伊賀である。奈良から西に行く人物は少なからずいる筈である。まして東大寺を見張る伊賀者は元興寺にもいたはずであった。しかし、忠倫はここでも百万塔を渡すことはできず、ついに京都まで持っていくこととなった。
聖護院に滞留すること十日。法親王の灌頂儀式には足利方の間者も偵察のために僧侶に扮し紛れ込んでいた。その間者、ずばり伊賀者であった。儀式が終了し三々五々、列席者が帰る中、例の修験者は百万塔を持ってただ佇んでいた。僧に扮した間者は伊賀者、直ぐさま百万塔に気が付き佇む件(くだん)の修験僧に声をかけた。間者はそれが伊賀にしか通用しない密書運搬器であることが分かっていたからである。声をかけられた忠倫は話をしている僧が北朝方の間者であるともつゆ知らず、伊勢神宮の権禰宜から伊賀の千賀地忍家へこの仏塔を渡すように頼まれたことを語った。それを聞いた間者は、自分が間者であるとは無論言わず、南朝方伊賀間者が知り合いにいる故、百万塔を託して下さるなら必ずや千賀地忍家に届けると誓い、百万塔に向かい恭しく合唱してみせた。そこで忠倫は特に疑いもせず、これは有難いこととて百万塔を北朝方の間者に引き渡してしまった。
この間者は実の名を百地鳥(ももちのとり)と言う。鳥は僧衣の下に百万塔を隠し持ち、そのまま京都を出て伊賀に直行し自身の忍家である百地(ももち)家に帰還した。忍家の中には明らかに南朝方や北朝方と旗色を鮮明にしているところもあるが、この鳥が属していた百地家は中立で、雇われて北朝方につくことも有れば逆に南朝方につくこともあった。帰還したこの間者は早速に、竈の近くに百万塔を置き一晩乾燥させ、水気を抜き蓋である相輪部を取り外した。案の定、中には密書らしき紙片が二枚入っていた。鳥自身は暗号文を解釈できなかったが、最終行にある宛先が伊賀上神戸であることはすぐに分かった。鳥は、所属する百地家の棟梁と議論した末、結論としてこの密書は北朝方に差し出さず、さらには情報も開示しないことと決めた。そして、本家筋である千賀地家あるいは上神戸家に百万塔ごと引き渡し、この件に関する全てのことや判断を任せることにしたのである。
こうしてやっと初期の目的地である目西が属した上神戸家に百万塔が到着した。
上神戸(かみのかんべ)の棟梁は密書の宛先「伊賀上神戸ヶ介」の筆跡をよく観察した。というのも実は、漢字の読み書きができる上忍の場合、自分の名を書に記することは絶対にせず、送付人である自分を特徴的筆跡で仲間に知らしめる方法をとるのである。特に文末の字に自分の筆跡を込め、逆に文頭や文中の文字は筆跡で身元がばれないよう没個性的な書体を用いる。そのために忍びは伊賀の寺、四十九院で習字の訓練をするのである。
「うん、百万塔の造りといい、この介の字の曲線と直線の組み合わせ具合といい、間違いなく目西。これは目西からの密書。奴は今どこぞにおるか。誰か知らんか」
「伊勢国にいるはずぞ」
「伊勢国のどこぞ」
「尾張熱田の間者に預けたが、どこに奴がいるかはそやつに聞かねばわからんて」
棟梁は何度か文面を読み返してみたが、なかなか書の意が解せなかった。もちろん、文章が暗号であることまでは察していたが。
伊賀上神戸は自分で解読するのをあきらめて、諜報本部とも言える宗家に書を持ち込んだ。さすがに千賀地忍宗家。各地の忍びからくる忍者文字の解読またその逆を専門的に扱う四十九院の僧侶を集団で囲っている。内何人かは京の有力寺院にいたこともあり学識がかなり高いとされた。彼らが目西からの文書の解読にあたった。そして直ぐに彼らは、文章が万葉仮名で、さらに折句の冠であることに気がついた。それなりの学識である。
「むつのみここのしますみてちよくしまつ」
また、ここは諜報活動で様々な情報を持っているが、政治的な動きには敏感な土地柄である。すぐに「むつのみこ」が「陸奥の皇子」つまり、義良親王であることが分かった。何故なら、昨夏、義良親王を奉じて北畠顕信が鎮守府将軍となり東征軍を伊勢大湊から出航させ途中遭難した事実を把握しているからである。つまりこの秘密文書は、難破した義良親王はある島に居て生きていることを伝えているということが分かった。また最後の「ちょくしまつ」は勅使待つの意であることも容易に類推できた。勅使とは天子の勅令を伝える使者のことである。仮に親王が離島にいれば、勅令の使者は御座船を出すはずである。つまりここでの勅使待つは天皇からの勅令を待っているのではなく、船を待っている、救出を待っているの意に他ならないと解釈で
きた。
では、どこの島に親王はいるのであろう。四十九院の僧侶達でもこの難問は直ぐには解決できなかった。この解読に実に八日間も費やした。それでも僧侶達はついに二枚の紙を点々で重ね合わせて透かすと「篠」という字が浮かび上がることが分かった。同時に目西も篠島にいることがこれで判明した。
千賀地宗家は重大な秘密を握ったことになった。世の情勢は明らかに足利方に有利。それは日々集められる各地の間者からの情報からも自明であった。もしここで足利方にこの情報を渡せば、優勢な北朝から所領安堵の綸旨が得られるであろう。そして、義良親王は直ぐにとらわれの身となる。ともすれば処刑されてしまい、そしてそれは南朝の終焉をも近づけることになるであろう。冷静な判断をすれば北朝から綸旨を頂く方が安全だ。
しかし、北畠親房に対する恩義はある。また、目西からの通信である。目西はその親房の実子。いずれ南朝方が益々不利になり、所領持ちとして生き延びるためには足利方に従わざるを得なくなるであろう。でも、今は未だ大丈夫である。せめて北畠親房が生きている間だけでも彼を裏切るまいと千賀地の棟梁である保親は思った。
千賀地宗家の中でも最優秀の上忍と千賀地保親本人が百万塔と文書も所持し、吉野に向かったのはその日の内であった。