暗澹たる気持ちで参加した同窓会ではあったが存外楽しいものであった。紀雄が思っているより彼の顔見知りがかなり多くて正直安堵したのである。確かに息子に関する質問を一度ではあるが受けた。だがその安堵のせいか、あるいはアルコールのせいか、事前のシミュレーションとは無関係に自然に応答する言葉が出た。それは正直ベースの応答で、智が小学校に入学するまでは必ず四半期に一回の割合で発達診断検査を受けさせられたことなど口軽く話せた。紀雄は若い層中心の二次会には出ずに同窓会を去った。一人になったときふと極少量かもしれないが肩の荷が軽くなった気がした。ただそれはあくまでほんの少しだけ。息子のことを古い仲間に喋る事ができたというだけのこと。ただ、もう息子に関する質問を恐れずにすみそうである。ただそれだけのことである。

 同窓会では、紀雄の二年下の後輩に久しぶりに会い、主に彼と飲み食いをした。名は東亨(ひがしとおる)。彼は卒業後、そのまま情報電子工学の大学院には進学せず、専攻を考古学に変え一から学び直したという奇妙な経歴の持ち主。紀雄と名刺を交換したときそのユニークな彼の経歴に相応しく彼の勤め先は紀雄には新鮮なものであった。彼は現在山梨県にある歴史系の博物館の館長兼学芸員をしているのだ。現在、この博物館は独立行政法人化を模索しつつあると言う。以前、指定管理者制度の基に運営が民間企業に委託されたことがあったのだが、委託先が考古学に無知な企業であったため大失敗となったらしい。そこで今は県が主体の運営で一部民間委託としている。それでも問題があるので将来独立行政法人化するらしい。博物館の運営が目に見えないところで色々変化をしていることに紀雄は興味を持った。

 紀雄も実は歴史好きで自ずと会話も展示物の話などに変わった。そこの展示物の多くは博物館の周辺が古墳群のため、その古墳出土品が多いと言う。無論県内の遺跡から出土した縄文時代の土器,土偶から始まり、近世までの展示が時代順にあるのだそうだ。紀雄も実は上越から東京まで自動車で向かう際、長野県や山梨県の遺跡を訪ねることがままあった。高速道路的には上越、東京間は関越経由が普通だが、紀雄は何の気なしに更埴ジャンクションで中央高速側に入ってしまう。それは中央高速の先に府中があるからかも知れない。そして中央高速経由の時は決まって寄り道をする。紀雄にとって関越道、軽井沢、佐久経由はどうもビジネスライクな道で寄り道するよりさっさと先を急ぎたくなる。鉄道でも同じだ。新幹線は在来線に較べて旅情に欠ける。もちろん途中に観光地や名所はいくらでもあるのだが、高速を降りてまでして紀雄がよる所と言えば軽井沢にあるアウトレットモールだけである。それも妻の芳子が同乗しているときのみ。一方の中央高速、松本経由の場合は、東京側から高尾陣馬に始まり大菩薩領、南アルプス、秩父、八ヶ岳、美ヶ原、北アルプスと風光明媚は言わずもがな。ついつい高速を出てしまう。紀雄が特に好きなのは勝沼から一宮御坂にかけてだ。自動車で高速を降りなくても、パーキングエリアから徒歩で外部へ出られる釈迦堂パーキングが歴史好きの彼のお気に入りだ。何故ならパーキングの階段を登りきり外に出ると甲府盆地を一望できる眺望はもとより、そこは釈迦堂遺跡なのだ。縄文時代の遺跡である。他にも金生遺跡や茅野にある尖石遺跡にも立ち寄ったことがある。これらの遺跡の話で東と紀雄は大いに盛り上がった。

 東と最後に語った話は展示品に関係する話ではあるがもう少し切実な話であった。それは展示品購入に纏わることであった。東の部下の学芸員に神奈川県鎌倉市出身の岩井美佐子という三十路を過ぎた女性がいるそうだ。

* * *

昨年の11月下旬、岩井は娘の綾実(あやみ)の七五三で鶴岡八幡宮に御参りするため山梨から鎌倉の実家に帰省していた。そのおりのことである。御参りの翌日、岩井は娘を実家に預けて久しぶりに観光客で賑あう小町小路や若宮大路をぶらついていた。場所柄、古美術商の多い所である。その中の一軒に岩井は職業柄ふとたちよってみた。そこで岩井は百万塔(ひゃくまんとう)が売られているの発見した。塔心に陀羅尼(だらに)
の経典が収められているという所謂百万塔陀羅尼の百万塔である。岩井の専門は仏教美術史。当然、百万塔陀羅尼のことは良く知っている。

陀羅尼は制作年代が明確な世界最古の印刷物とされるもの。無垢浄光陀羅尼経に説かれる根本陀羅尼、相輪陀羅尼、自心印陀羅尼、六度陀羅尼の四種の陀羅尼を印刷し、それぞれを百万基の小塔に納めている。これらの百万塔と陀羅尼は天平宝字八年(764)恵美押勝の乱における死者の追福修繕のため女帝称徳天皇の発願により作成されたものである。六年の歳月を経て神護景雲四年(770)に完成し、法隆寺、大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺、東大寺、西大寺、弘福寺、四天王寺、崇福寺の十大寺に各十万基づつ奉納されたと言われている。ただ現在においては残念ながら法隆寺に奉納された内の約4万6千基だけが残り重要文化財となっている。小塔は轆轤(ろくろ)作りで塔身部と相輪部からなる。塔身部は三重の塔で高さ13.2cm、底部直径10.6cm、中心部はくり貫きで陀羅陀収納部となっている。用材は檜。相輪部は九輪(円盤は五輪)で高さ8.6cm、陀羅尼収納部にはめ込み式の蓋となる。用材は桂や櫻など。塔身部に相輪部をセットした時の高さは21.2cmである。かつて塔の表面には白土が塗られていたと伝えられる。また法隆寺は伽藍修復の負債返済資金調達のため、明治40年から41年末にかけて百万塔陀羅尼962基を民間に譲与した。そのため時々ではあるが本物が骨董市場に登場しては消えるという。百万塔と陀羅尼のセットでの平均取引価格は約700万円らしい。むろん逸品の場合は数千万円、傷ものの場合は数百万円とぴんきりではある。

もちろん岩井はこの手のものには贋品やレプリカが多数存在することを重々承知している。レプリカとは言え博物館向けの精密レプリカなどは数十万円することもある。しかし、この古美術商にある百万塔は変わっていた。他の百万塔とどう違うのか岩井には明確に説明することはできないが、形に奇異な印象があった。店長の話だと、これは本物ではないが骨董品であることも間違いないという。つまり相当古い時代に、店長の推定では江戸時代以前に作成された百万塔の贋物であり骨董的価値があるのだそうだ。そこで彼がつけた値段は150万円。

はじめ、岩井はこんないんちきなものを誰が購入するのか疑問であるとさえ思っていた。しかし店長と話すうちにこの百万塔贋物が実は山梨県の寺から入手したものであることを知ってから妙な親近感が沸いた。さらに、山梨県の寺というのが実は悟道山安国寺と知って岩井は非常に驚いた。というのも、その寺は岩井の勤める県立の歴史系博物館から車で15分とかからない場所にある。住所でいうと心経寺というのだが。悟道山安国寺は甲斐の国の安国寺で、全国にある夢想国師ゆかりの安国寺の一つ。元弘乱以来の敵味方一切の戦没者を弔い天下泰平を祈る主旨で夢想国師に薦められた足利尊氏が一国一寺で開基したのが安国寺である。住所が示している通りここの安国寺の前進は心経寺である。岩井は過去何回かこの寺を訪れ寺宝の恵心僧都源信作と伝えられる県指定重要文化財である釈迦如来像や、臨済宗宝泉寺とこの寺に伝わるとされる夢想国師の胸像を元禄十四年(1701)に交換して得たという涅槃図を見学したことがある。店長の話からではどのようにしてまたどのような状態でこの百万塔が寺で発見されたのかほとんど分からなかった。しかし、地元の寺の少なくとも江戸時代以前と思われる仏教工芸品、しかもそれは奈良時代の百万塔を模したものであれば、博物館に展示する品として如何にも的を得ているのでは。岩井は心の中でこれを手に入れる算段をしつつ、空想を巡らせ始めた。どこに陳列すべきか、もしかしたらこの百万塔模倣品は経筒の一種ではないか、であるなら、経筒の隣に陳列すべきでは、などと。

岩井は色々なことを考えわくわくした。岩井は店長に塔身に陀羅尼なり経典が入っているか訪ねたが、答えは不明。実は相輪部と塔身部が明らかに別体ではあるのだが、上手く分離できないと言う。岩井はやや期待はずれでがっかりした。

 東は紀雄にひととおりここまで一気に話、最後にこの百万塔を購入したかどうか、どっちかを問うた。紀雄は「購入していない。」と言った。東は「ブー、実は購入しました。未だ、物が届いたばかりで調査すら開始していないし、博物館のニュースレターにも公開していないけど。何か新発見でもあればメールしますよ」と語った。

東も二次会には行かなかった。紀雄は東に別れ際、府中の曹洞宗龍門山高安寺は足利尊氏開基とあるが、山梨県のその安国寺と関係があるのか東に訪ねた。答えはシンプル。もちろん龍門山高安寺は安国寺のひとつ。東は、全国の安国寺はすべて尊氏が開基したが、その開基の際に本当に建立した寺は少なく、むしろ元寺を改修し安国寺の称号を与えられた寺が多いことなどを紀雄に説明した。また、安国寺の寺紋は全て足利氏の二両引き紋であることも。紀雄は、智がいつも見つめていた円の中に水平線が二本だけあるシンプルなあの図形が実は足利家の紋であることをこのとき始めて知った。


        


(重要文化財)百万等図






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