大学のパソコンでメールを見た。東に命令されて昨日の内に岩井はメールを出してきていた。そのせいなのかあるいは何故智宛なのか尋ねたせいなのか、このメールの宛先は紀雄であった。 
送信者:   ”岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp>
宛先:     <n-suzaka@joetsu***.ac.jp>
送信日時:   20**年3月22日 21:01
件名:     内文書に関して
TO:智様、須坂教授殿
cc:東館長殿

お世話になっております。山梨県立**博物館の岩井です。
本日は当館ご来場誠に有難うございます。 (。 ̄▽ ̄)ノ

さて、当館の東が万葉仮名と気づき解読できました内文書は以下のとおりです。
文章を単純に万葉仮名→かな変換しますと、

むしつきのつゆとぬ
れたるののみずをみ
ずほしからばこれあ
つめたしことからく
のみたるみずのしろ
ければまつのねのい
のすぎたるしおのみ
がけどもてつのさび
たるちぎりのはよく
よくしおのくさみざ
らまししらねどもま
みずほしつゆあつめ

これでは良く分かりませんが、五七調に直し適当な漢字を割り当てますと、

虫付きの露と濡れたる野の水を
水欲しければこれ集めたし
こと辛く飲みたる水の白ければ
松の根の井の過ぎたる塩の 
磨けども鉄の錆たる契りの葉
よくよく塩の臭みざらまし
知らねども真水欲し露集め

内容的には分かるような分からないような歌です。なんの為にこのような詞を
伊賀の国の上神戸の介に送ったのかまるで理解できません。尚、介というのは
官位のことです。

以上

 春分の日も過ぎ、実感はまるでないが昼間の方が夜より長い季節となった。休日ですら普段は研究室の学生は出てきていることが多いのだが、この時期は例外と言える。今日はポスドク(博士課程修了者)の研究生である則武君しか来ていなかった。春の学会発表の準備のために来ているのだろう。そもそも2月度で卒論、修論から博士論文まで一気に片付けてしまっているので、来春からも学校に残る学生以外はもう学校には来ない。その上、三月後半になると地元出身の学生以外は一旦上越から出て行くことが多い。地元の学生も妙高や赤倉にスノーボードをしに行っていたりする。ただ例外的に情報工学科の学生だけが四月の花見の企画のために登校してくる。

 紀雄は自分の個室を出て研究室の学生達の居室に入った。誰もいない。学生の机の上に、暗号化技術の教科書があった。紀雄の現在の専門はデジタル透かしであるが、この透かしも秘匿されたメッセージを伝える手段。暗号と同一目的であり、暗号技術はクリプトグラフ、透かし技術はステガノグラフと呼ぶ姉妹技術である。紀雄の研究室にあって当然の教科書である。紀雄は、その暗号化の教科書を手に持って中を呼んでみた。歴史的かつ古典的な暗号技術から果てはヒトラーのドイツ軍で使用されていたエニグマまでテキストの前半部で解説されている。無論、公開鍵及び一方通行関数あるいは楕円関数を用いたインターネットの暗号技術等、現代の暗号化の解説が主たる目的の教科書なのだが。紀雄はページをめくるうちに、あるコラム記事と書かれたページで目を止めた。

コラム:和歌に仕組まれた暗号

昔から暗号はもっぱら戦争で発達してきたたが、平安期になると歌人たちの間では遊び
として利用された。和歌を暗合にするその方法は、暗号学的には「分置式」と呼ばれる
もので、一見なんでもない和歌の中に、別の通信文を秘匿する方法である。紀貫之の歌
につぎのようなものがある。


      小倉山峰たち鳴らしなく鹿のへにけむ秋を知るひとぞなき <古今集>

実はこの歌には、別の意味の言葉が隠されていることは有名である。以下のように記すと

ぐらやま

ね立ち鳴らし

く鹿の

にけむ秋を

るひとぞなき

いちばん頭の字をだけを読むと、「をみなへし」(女郎花)となる。実にみやびな遊び
でる。こうした歌を「折句」と呼ぶが、暗号を各句の頭に分置するものを[冠](かむり)、
末尾に置くものを[沓](くつ)といい、さらに両方に折り込むのを[沓冠](くつかむり)
と称する。
 

 紀雄は慌てて自分の部屋に戻り、岩井からのメールをプリンタで出力した。そうか、間違いない。

   (む)虫付きの   (つ)露と濡れたる (の)野の水を
   (み)水欲しければ (こ)これ集めたし
   (こ)こと辛く   (の)飲みたる水の (し)白ければ
   (ま)松の根の井の (す)過ぎたる塩の 
    (み)磨けども   (て)鉄の錆たる  (ち)契りの葉
    (よ)よくよく塩の (く)臭みざらまし
    (し)知ねども   (ま)真水欲し   (つ)露集め

つまり、「むつのみここのしますみてちよくしまつ」である。
意味は何とか通る気がした。間違いなくこれは冠であろう。漢字を適当にあてがえば、より意味が通るはずである。
 六つのみ、ここの島住みて直枝松 
さらに転置をして
 直枝松、六つのみ、ここの島住みて
さらに現代風に意訳すると
 まっすぐな枝ぶりの松の木、六本のみがここの島に未だに植生しています。
 紀雄は自分なりに意味を解釈してみた。これは大発見であると思った。しかし何故このような他愛もない歌をいかにも暗号化して、さらに鍵機構のある百万塔のレプリカに入れて、それも忍者を連想させる伊賀の上神戸に送付したのであろうか。暗号、密書輸送、忍者、これらのキーワードは矛盾無く繋がるのに、暗号文の内容がこれでは。紀雄は解せなかった。悩みつつも、この大発見を岩井、東、智全員を宛先にしてメールを出した。

 学食も休みに入っていた。そこで紀雄は車でキャンパスを出て北陸自動車道のガードの先にあるファーストフード店のドライブスルーでアイスコーヒーとハンバーガーとフライドポテトを買ってきた。そして研究室に持ち帰り、再びパソコンの前に座った。博物館というのは暇なのであろうか、紀雄がメールを出してから未だ2時間半しかたっていないのに岩井からも東からも返信があった。ただ、東からのメールは「暗号とは気づきませんでした」という内容のみの返信であった。
 岩井からのメールははるかに長く重要な内容である。

送信者:   岩井美佐子”<m-iwai@hmuseum.pref.yamanashi.jp>
宛先:     <n-suzaka@joetsu***.ac.jp>
送信日時:   20**323 11:33
件名:     Re:和歌は暗号です

TO:須坂教授殿
cc:智様、東館長殿

お世話になっております。山梨県立**博物館の岩井です。(‘@@:)

さて、先生の暗号解読、ご専門分野とお聞きしておりましたが、このような古文書まで先生のテリトリーとは恐れ入ります。(∋_∈) 古文書の解読は元来私の専門でして、私が、気がつくべき事項なのですがお恥ずかしい次第です。φ(Θ−Θ) 先生のご指摘どおり、折句の冠であるというのは間違いないことと思われます。また、先生がご指摘の、伊賀忍家への密書の内容にしては文が妙だと言う点に関してですが、現代訳文を考え直す必要があると思い以下の解析をしました。つまり、「むつのみここのしますみてちよくしまつ」の漢字への変換に関していくつかの可能性で再考しております。どこまでを単語と捉えるかで様々ですが、基本的にこれは五七調と考えたほうが良いと思われます。
 むつのみこ このしますみて ちよくしまつ
  むつ   → 六つ
  むつの  → 六ツ野
  むつのみ  → 六つのみ、六つ野実
  むつのみこ → 六つの皇子な


  このしま  → この島(この部分はこれが最も妥当)
  すみて   → 墨で、澄みて、炭で、住みて、済みて、隅で


  ちよく   → 地良く、直、勅、値良く
  しまつ   → 始末、島津


あるいは
  ちょくし  → 勅旨、勅使、直視
  まつ    → 松、末、待つ、抹

一番初めの五文字は意味合いの通りから言って、個人的には六つの皇子(=六歳の皇子)が妥当だと考えています。陸奥の皇子も意は通ります。この島すみての、すみて部分は隅で、あるいは、住みて、澄みてが妥当です。最後の七文字部は上のリストから考えても「ちよく・しまつ」と分けた場合、全体の文意が通じなくなるため、やはり「ちょくし・まつ」が妥当で、勅旨松、勅使松あるいは勅使待つが良いと思われます。全体を通しますと、

 六つの皇子 この島(の)隅で 勅使待つ
 六つの皇子 この島住みて 勅使待つ
 六つの皇子 この島澄みて 地良くし 待つ???
この辺りが妥当で皇子が勅使を待つ旨を伝えたものと思われます。だとすれば、密書により相応しい内容と言えます。とくに島の隅にて待つことを伝えた可能性があります。
 また、このような折句を読むとなると当時としては相当に教養のある人物で、僧侶か貴族あるいはトップ階級の武士に限られます。ただ百万塔の実製作者は当然貴族ではなく職人階級の人間であると類推されます。前回の寺院関係者の推論と合わせて考えますと製作者は例えば宮大工や仏師であることなどが考えられます。(⌒▽⌒)ノ    

以上

 食べていたフライドポテトがキーボード上に少しこぼれた。紀雄は画面を見ながら頷いていた。岩井の言う通りである。自分の国語力のなさにも改めて気がつかされた思いである。岩井が読み人を教養人と言っているが、少なくとも自分よりも国語力のある人物であると紀雄は確信した。確かに紀雄が考えた文意では秘匿の意味がまるでないが、「六つの皇子 この島住みて 勅使待つ」であれば充分秘密事項と言える。では「六つの皇子」とは誰のことであろうか。「この島」とはどこの島のことであろうか。再び新たな疑問が生じたことになった。ただ島と限定されれば求めている範囲はぐっと絞られたことになるのではなかろうか。

 紀雄はメールを閉じた。遊びはもう止めて仕事を片付けなければと。紀雄はJOIという論文誌のレフリーとなっているため三報分だけなのだが論文を査読しなくてはならなかった。また新学期からの講義の準備をしなければならない。四年生の講義に暗号化技術でも新たに加えよう、そう思った。


       





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